◆ ペテロの生涯(14) 

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年一月九日号 
        ▽ 小さな思いやりから愛へ 

 
ペテロ下にて中庭におりしに、大祭司のはしための一人きたりて、ペテロの火に暖まりおるを見、これに目をとめて「なんじもかのナザレ人イエスとともにいたり」と言う。

ペテロうけがわずして「われは汝の言うことを知らず、又その意をも悟らず」と言いて庭口に出でたり。
はしため彼を見て、またかたわらに立つ者どもに「この人は、かのともがらなり」と言い出でしに、ペテロ重ねてうけがわず。

……この時ペテロ誓いて「われは汝らの言うその人を知らず」と言い出づ。その折しも、また鶏鳴きぬ。

ペテロ「鶏二度鳴く前になんじ三度われを否まん」とイエスの言い給いしみ言葉を思いいだし、思いかえして泣きたり。

          マルコ伝一四章六六節〜七二節

 聖書を人間の作り話と考える人にたずねたい。

 人間は自分たちの恥ずかしい罪をこんなにもはっきりした描写で書くことがあるだろうか、と。日本の宗教図書をとってみても教祖の過去はぼかしてある。ましてや、カトリックの人たちが崇敬やまないペテロの背信行為をあからさまに書く必要はどこにあったであろうか。

 ユダがキリストをうらぎった理由ははっきり記されているところだが(ルカ二二・三)、ペテロについては私たちが自分の心を点検するためにであろうか、理由はわからない。私たちの生活体験から推察することをゆるされるなら、主な理由は次のようであろう。

一、おそれ

人間はメンツを重んじる。奇蹟を行う偉大な師イエスと共にいることは大変自慢出来たが、とらわれの身となったイエスの弟子といわれることは恥と考えたであろう。これからどんな迫害がくるかわからないし、彼のしゅうとや妻のことも心配であったろう。つい数日前までイエス様をかこんでいた熱狂的な群衆は今はなく、敵意と憎悪にみちた祭司たちにかこまれたペテロの恐怖は想像にかたくない。

二、失うことの不安

宗教的な憎しみと争いの結末はユダヤ人のよくしるところであったから、まず生命の危機を感じたと思う。生活の危機もあったろう。主イエスに対する不満はなかったろうか?「私たちがこんなに熱心に従ってきたというのに一体、約束はどうなったのか」と。疑いは不信仰に通じる道だ。

三、自我

己が生命を救わんと思う者はこれを失い、わがために己が生命を失う者は、之をうべし=iマタイ伝一六章二五節) 

     (続く)
 
  


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