◆ ペテロの生涯(18)
習志野バプテスト教会週報
大祭司の一族みな集いて、その中にかの二人を立てて問う「いかなる能力いかなる名によりてこの事を行いしぞ」この時ペテロ聖霊にて満たされ、彼らに言う「民の司たち及び長老たちよ、我らが病める者になしし善き業につき、そのいかにして救われしかを今日もしたださるるならば、汝ら一同およびイスラエルの民みな知れ、この人のすこやかになりて汝らの前に立つは、ナザレのイエス・キリスト、即ち汝らが十字架につけ、神が死人の中よりよみがえらせ給いし者の名によることを。このイエスは汝ら家造りに軽しめられし石にて、隅の首石となりたるなり。他の者によりては救いを得ることなし。天の下には我らの頼りて救わるべき他の名を、人に賜いしことなければなり。
ひところ若い人たちの間に、「権威に反対!」といって長髪がはやった。既存のあらゆる権威にさからう意志表示であるというのだった。人間は社会的な地位や財力あるいは腕力によって人を制することを考える。奇蹟を目のあたりにした大祭司や当時の宗教家たちは、この世の考えにてらしても、ペテロに全然それらしい力の秘密をさがしあてることが出来ないために強圧的に問いただした。 ペテロの答えは明瞭だった、「ナザレのイエス・キリストの名による」と。
他の者によりては救いを得ることなし。 人間は哲学によって良心のとがめを感じない。宗教によっておどかされることはあっても、霊魂の自由を得ることはない。なぜなら「宗教」は天地の創造主と人間一人一人との深いかかわりを生むことはないから。暗示でしばることは出来たとしても、神のさばきから救い出す力はない。人を生かす血液には生命がある。他の化学物質によっては人間をつくることも生かすことも出来ない。人間を創造なさった神のみが救いの道をお示しになることが可能である。神さまはその救いをご用意くださったと同時に、唯一の方法だと宣言なさった。 救いを受ける側が条件を出すことは出来ない。 神は罪をさばかれる。が、神の約束なさった救い主キリストを心にお迎えする人は罪をゆるされるのだ。
◎ 暗誦聖句 コロサイ書二章三節
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