◆ ペテロの生涯(20) 

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年二月二〇日号 
        ▽ 聖書の約束を自分のものに
 

みよ我今日汝らの前に祝福と呪いとを置く。汝らもしわが今日なんじらに命ずる汝らの神エホバの誠命に従わば祝福を得ん。汝らもし汝らの神エホバの誠命に従わず翻えりてわが今日なんじらに命ずる道を離れ、素知らざりし他の神々に従いなば呪いをこうむらん。汝の神エホバ汝が行きて獲んとする地に汝を導きいり給う時は汝ゲリジム山に祝福を置き、エバル山に呪いをおくべし。
     申命記一一章二六〜二九節

 新約聖書の使徒行伝四章三二節から五章一六節を読んでいただきたい。ペテロの伝道において一番おどろいたのが彼自身であったと思われる出来事が記録されている。聖書はたしかに理解しにくい部分もあるが、全然わからない書物ではない。聖書を読んだがさっぱりわからなかったとか、聖書は理解しにくいから読む気がしないという人がいる。「全然」とか、「さっぱり」とかいう言葉は人を誤解させる表現である。聖書の基本的な教えを無視する人たちが、好んで使うオドシでもある。

 神様は現代の人に聖書を通して語っていてくださるのだから、人間が聖書を読んで全く理解出来ないとしたら何の意味があろうか(ヘブル書一・一〜三、ヨハネ伝五・三九〜四〇、ペテロ後一・二〇〜二一、テモテ後三・一五〜一七)。

 かつてイスラエルの人々に語られた全能の神は、祝福と呪いという誰にでもわかる区別をおかれた。神様に従う者は恵みを受けるが、従わない者は裁きを受けなければならない。その原則は今も、後の世も変ることが絶対にない。

 なぐさめの子(バルナバ)と呼ばれたヨセフは、裕福な人であった(使徒行伝四・三六)。アナニヤ(主は恵みふかいの意)とサッピラ(美しいの意)は金持ちであったが、偽善にみちていた。旧約の時代にも神さまにさばかれたイスラエルの指導者がいた(ヨシュア記七章)。

 バルナバも、アナニヤも土地を売って教会にささげたのだが、バルナバは祝福を受け、アナニヤとサッピラは死をむかえたのは何故であろうか。アナニヤは土地を売らなければならなかったのだろうか?そんなことはない。売った代金の一部を手元においたためにさばかれたのだろうか?そうではない。アナニヤはペテロをだまそうとしたのだ。それはとりもなおさず神様に対していつわりを言ったことであった。一部分の代金をもって全部と言った偽善のため、そして自分をよくみせようとした罪のゆえの死であった。

自我は始末できているだろうか。

        ( 続 く )
 
 
 

 
◎ 暗誦聖句 コロサイ書 二章六節  
汝らキリスト・イエスを主として受けたるにより、
 そのごとく彼に在りて歩め。
 


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