◆ アブラハムの生涯(2) 

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年三月二六日号 
        ▽卒業おめでとう
 

 アブラハムの生涯における大きな特徴は「はなれる」ことにあった。彼は親族の国をはなれ、神様がお示しになった地にむかった。彼が目ざした土地にはカナン人がすんでいた(創世記一二章六節)。カナン人はバアル崇拝(太陽神)を行っていた。いつの時代にも太陽に対する信仰は根ずよい。日本人の信仰も似たりよったりである。アブラムはここで信仰と望みに対する攻撃を受け、心の悩み・忍耐の試練を経験した。

 アブラムの目がカナン人(サタンの力のあらわれ)にうばわれないように、神様はアブラムにあらわれてくださった(創世記一二章七節)。

我らは血肉と戦うにあらず、政治・権威、この世の暗黒を掌どるもの、天のところにある悪の霊と戦うなり。
       (エペソ書六章一二節)

 アブラムは全能の神を礼拝し、約束をあたえてくださった神に祭壇をきずいた(創世記一二章八節)。彼の生活は天幕であった。この世の旅人である私たちもこの天幕のことを忘れてはなるまい。どんなにりっぱな家に住んでも神様の祝福がなければ虚飾の倉庫にすぎない。

 日本人の家には仏壇と神棚が同居している。これほど奇異なくみ合わせはないのだが、何のムジュンもおぼえないところに日本人の宗教感覚があるのかもしれない。無神論と多神論という相反するものが同居をするのをゆるす私たちの民族性は、今日の様々な憲法裁断にもあらわれていて、「習俗」という言葉でやっかいな事はふれないでおこうというのだ。形だけがととのっていても中味のない信仰である。

 アブラムは日ごとに神様をあおいだ。彼にとっての祭壇は、自分自身を神様にささげるところであり、単に犠牲をささげる程度のものではなかったのである。

されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧む、己が身を神の悦びたもう潔き活ける供物として献げよ、これ霊の祭なり。
       (ロマ書一二章一節)

 アブラムたちの生活を飢饉がおそった。そこで彼はエジプトにくだって行った。神様の約束の地をはなれて行ったのである。そこで彼は妻サライをあやうく失うところであった(創世記一二章一七節)。

 アブラムはエジプトで多くの羊やらくだ、金銀を得た。彼の得た富は、神様とのまじわりとくらべたら何と貧しい代償であったことか。日曜日に働くことで収入が多くなる仕事もあろう。だがそのために 失う霊的な祝福ははかりしれないものがある。礼拝を捧げる所、導かれた祝福の場から遠のいてはならない。
 
    (続く)
 
 
 

◎ 暗誦聖句  コロサイ書 四章六節  
汝らの言葉は常に恵みを用い、塩にて味つけよ。=@ 


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