◆ アブラハムの生涯(3)
習志野バプテスト教会週報
汝らの中もし知恵の欠くる者あらば、とがむることなく、また惜しむことなく、凡ての人にあたうる神に求むべし、さらば与えられん。ただし疑うことなく、信仰をもて求むべし。疑う者は、風に動かされてひるがえる海の波のごときなり。かかる人は、主より何物をも受くと思うな。かかる人は二心にして、凡てその歩むところの道定りなし。<сRブ書一章五〜八節 信仰とは何だろうか。一口に信仰といってもいろいろな考え方があるようで、「いわしの頭も…」式から「信仰のためには身をとしても…」という強固なものまである。 聖書の教える信仰を学ぼう。 ヘブル語のアマン(信じる)は、一つの所にとどまること、かたく立つ、よりたのむ、などの意味で、自分をしっかりささえてくれるものを確認することだといわれている。アブラハムは神を信じた。信仰とは単なる推測ではなく、無条件に主イエスとそのみ言葉に頼ることであり、たとえ自然の領域で希望や期待をもたらすことがなかったとしても、よりたのむことである。 神はこうしたアブラハムの信仰を「義」とみとめられた。彼は神の約束を疑うことなく、神のみ言葉に対してすぐさま従うという態度をもったのである。 スイスで数人の植物学者が花の珍種をさがしていた時のことである。山を歩きまわるうちに、ガケの中腹に一つの大変めずらしい花を見つけた。 道案内をしていた少年に、 「お礼をするからあの花をとってきてくれないか」 と言うと、この少年は父を呼んでくると答えた。 「いや、もしロープでつりおろすんだったら私たちがやるよ」 子供は村にむかって走り出した。やがて年老いた父親の手をひっぱるようにしてもどってきた。 「お父さんにロープをもってもらいます」 そして珍しい花をとってきたという。他人よりも自分の父親の方がはるかに確かだという少年の気持ちはすばらしい。現代の日本でこんな父子関係がみられるだろうか。創世記十七章にはアブラハムが受けた祝福が書かれている。信仰によってアブラハムの子孫とされた私たちは、少しでも彼の祝福にあずかろうではないか。 一、多くの国民の父 二、神のごとき君 三、神の信頼を受ける 四、預言者 五、わが友 六、神のしもべ (続く)
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