◆ アブラハムの生涯(6)

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年四月三〇日号 
        ▽特別集会は祈りから始まる

 私たちは数多くの敵とたたかわなければならない。悪魔は毎日私たちを攻撃してくるし、この世(人間のつくった社会制度、通念ほか)も私たちの信仰にたたかいをいどんでくる。よくうつ、あきらめ、悲観主義、迷路、失意など数えあげればきりがない。詩篇四六・一、五九・九、一一を読んで考えよう。

 一七節の描写は慰めを示す。カマド(苦しみ)のあとにたいまつ(神の恵み=救い)が通ったとは何というなぐさめであろう。

 神のしもべたちも同様に、まずこころみられ、忠実であることが証しされてから奉仕の場へだされるのだ。

信仰≠ニは、主イエス・キリストとそのみ言葉に対する無条件の信頼である。自然の法則にてらしてみて期待することは出来ず、全く希望もないと思える時でも神の約束を信じよりたのむことである。

義∞信仰∞希望≠フ三つの語は同じ語源的背景をもつといわれる。 

 まず、ま四角とか真っすぐな線をあらわす意味につかわれ、曲がった線と対比される。

 二番目に安定しているとか、しっかり固定しているという状態で、神の真理の認識を示す。神の真理はこの世の中の移りゆく幻想とちがい、ゆるぎがない。

 第三に、義と真理の源であらわれるキリストに全くよりたのむ心をあらわしている。

 神のみ力は死んだと同じ状態にあったアブラムとサラ
という二人の老人にあらわされた。望むべくもない時に彼は信じた。そこにアブラハムの偉大さがあった。

 このアブラハムの信仰は新約聖書のロマ書を通してこまかに記されている。人間の働きや行いによらないで、神に信頼した人物のあかしである。信仰義認は儀式にも依存しない。こうした義認の根拠は、イエス・キリストの十字架の死にある。人間が自分の働きに頼ろうとするとき、み子イエス・キリストの十字架上のあがないをむなしくしてしまう。

 エペソ書二・五、とがによりて死にたる我らをすらキリスト・イエスによりてキリストと共に生かし…=B天路歴程という本を書いたジョン・バンヤンは人間の心の中にひそむ悪について書いている。

一.不信仰につながるかくれた傾向

二.希望をすてる思い

三.理性をすてる傾向

四.感情が疑いにかたむく

五.他の人の意見に左右され、神を忘れる

六.人間の常識で判断し、神の約束をすててしまう

 復活の主と共に日々を進もうではないか。
 
 

◎今週の暗誦聖句 使徒行伝二十章三十五節「 」内
「与うるは受くるよりも幸福(さいわい)なり」=v
 
 


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