◆ アブラハムの生涯(9)

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年六月四日号 
        ▽みよ今は恵みの時、今は救いの日
 

▽創世記一六章ハガルとみ使い
 アブラハムが妻のすすめで子供を得ようとハガルと結ばれた時、家庭内には波風が立ち、それまでの主従関係があっというまにくずれた。サライとハガルの間にはげしいマサツが生じた。侍女ハガルと結ばれるようにすすめたのは本妻のサライであったが、ハガルが妊娠・出産となると、アブラハムの愛情がそちらに傾くのをだまって見ていられなくなった。ハガルも主人であるサライをいやしめるようになったのである。

アブラハムの同意を得たサライはハガルが出しゃばらないように苦しめた。
ハガルは荒野にのがれた。疲れをいやそうと泉にきた時み使いが彼女に語った。悔い改めのすすめであった。「いずこより来れるや、又いずこに行くや」(八節)「汝の女主のもとにかえり、身をその手にまかすべし」                         ▽ 悔いあらためが真実であるとき、神様のあわれみがそそがれる。
詩篇三二篇一節ー六節
そのとがをゆるされその罪をおおわれしものは福なり。不義をエホバに負わせられざるもの、心にいつわりなき者はさいわいなり。我いいあらわさざりしときは終日かなしみさけびたるが故に、わが骨ふるびおとろえたり。なんじの手は夜も昼もわが上にありて重し。わが身の潤澤かわりて夏のひでりのごとくなれり。
 かくて我なんじの前にわが罪をあらわし、わが不義をおおわざりき。我言えらく、わがとが(罪)をエホバに言いあらわさんと。かかるときしも汝わが罪の邪曲をゆるしたまえり。されば神をうやまう者は汝に遇うことをうべき間になんじに祈らん。大水あふれ流るるともかならずその身におよばじ。

▽ 救いとは、人間の生活苦や人間関係の悩みから自由になるという意味ではない。日本人が考えるのはあくまでも人間中心だが、聖書の示す救いとは、神のさばき、神の怒りからの自由であって、人間は罪のもたらす結果を自分の力でとりのぞくことは出来ない。
人間を造って下さった全能の神をあおぎみて、不信仰、不従順の罪を神様に言いあらわすなら(牧師に対してではなく)、神様はあなたの罪をゆるしてくださる。
神様の怒りの対象としての罪人ではなく、罪をゆるされて神の子供の一人としてむかえ入れられるとき、明日のことを思い煩うな=iマタイ伝六・三四)というキリストのお約束が現実のものとなる。必要な物すべてがそなえられ、あたえられるのである。(続く)
 

◎ 暗誦聖句   詩篇一〇三篇五節  
汝の口を嘉物にてあかしめ給う。かくて汝は壮ぎて鷲のごとく新になるなり。

 


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