◆ アブラハムの生涯(10)
習志野バプテスト教会週報
アブラハム九九才の時エホバ、アブラハムにあらはれて之に言いたまいけるは、全能の神なり。
全能の神≠ニいうエル・シャダイ≠ヘ、「すべて十分な神」という意味である。シャダには「そそぐ」とか「流す」という意味があるので、豊かにとか、継続してという言葉とつながって前述のような表現になる。 イシマエルが生まれてから一三年の間、アブラハムに対しての神からの語りかけがなかったようだ。ある注解者はそれをアブラハムの「いそいだ決心」(ハガルと結ばれることで子孫を残そうとしたこと)のためであろうと考えている。 四〜六節。アブラム( 高位の父、高くされた父)という名前がアブラハム( 多くの国民の父)とかえられた。そして妻サライ( 私の王女)もサラ( 多くの人の王女)とかえられた。 信仰の父とよばれるアブラハムにも弱さがあった。約束を待つことが出来なかったことである。然し私たちは彼を責められるだろうか。今の私たちだったら、ずっと早く人間的な手段を講じてしまったことだろう。 神が全能の神としてアブラハムに契約を確認なさったとき、一つの条件があった。神のみ言葉を信じるだけでなく、きよくあれということだった。割礼は外の民と神の選民とを区分する。信仰による義の証印として(ロマ書四・一一)のしるしが割礼である。私たちが主イエス・キリストを心に信じて受け入れる時、儀式によらない割礼を受け、アブラハムの末として神に受け入れられるのである。(ロマ書四章二三節)。 イエス・キリストを信じる私たちは、神の約束を待つあいだ、信仰が冷えないように警戒しなければならない。わが前にあゆみて完全(まった)かれよ≠ニいう聖句を毎日思いおこそう。 神のお約束をくり返し自分の心に語って信仰のはげましを得よう。 エホバのみ手は短くして救いえざるにあらず、その耳はにぶくして聞こえざるにあらず、ただ汝らのよこしまなる業汝らと汝らの神との間をへだてたり。又なんじらの罪そのみ顔をおおいて聞こえざらしめたり。
それ神の言(ことば)には能(あた)わぬところなし(ルカ伝一・三七)。おわりにヤコブ書一章四節、 忍耐をして全き活動をなさしめよ。これ汝らが全く、かつ備わりて欠くるところなからんためなり。 ( 続 く )
◎ 暗誦聖句 ペテロ前書二章二節前半
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