◆ アブラハムの生涯(11)
習志野バプテスト教会週報
聖書の中には数多くの励ましと、なぐさめの約束がある。イスラエル全体に関する約束もあれば特定の個人に対するものもある。その聖句がすべての人に適応出来る約束かどうかは前後関係をよく読んで見きわめる必要がある。時として、あやまった引用をする人がいるようだから気をつけたい。 エホバに あに為しがたきことあらんや
私たちは自分の能力、財産、年令、その他を考えてみて結論を出すのが普通であるが、アブラハムとて同様であった。アブラハムもサラも年老いて、サラは子供を産める年令ではなかった。それにもかかわらず、神様は彼に問いかけられたのである。 ああ主エホバよ、汝はその大いなる能力とのべたる腕をもて天と地を造りたまえり。
それ神の言にはあたわぬところなし
私たちの信じる神様の力が小さいのではなく、私たちの信仰が小さいのだ。神様の約束の一つ一つを何度も心にきざみ、求め続けようではないか。 汝らがわが名によりて願うことは、我みな之をなさん父、子によりて栄光を受け給わんためなり。
汝らの得ざるは求めざるによりてなり。
創世記一八章一七節に、エホバ言い給いけるはわが為さんとすることをアブラハムにかくすべけんや≠ニある。 世間には自分の推論をいかにも神の啓示であるかのように発表する人がいる。私たちは聖書を通して神のご計画を学ぼう。 神むかしは預言者たちにより、多くに分かち、多くの方法をもて先祖たちに語り給いしが、この末の世にはみ子によりて、我らに語り給えり。
聖書が明白に書いていない部分を独断的に推論、発表する人たちには警戒しよう。神様が光をあてておられないのには理由があるからだ。 一九節の彼を知れり≠ニいう表現も、見おとしてはならない大切な信仰のあかしであろう。 私たちはどのように神様に知られているだろうか。
◎ 暗誦聖句 コロサイ書 三章 一六節
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