◆ アブラハムの生涯(12)

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年六月二五日号 
        ▽祈りの継続こそ鍵
 

◇ 創世記一八章二〇節以下
エホバ又言い給う「ソドムとゴモラのさけび大いなるにより又その罪甚だ重きによりて我今くだりてそのさけびの我に達れるごとく彼ら全く行いたりしやを見んとす。もししからずば我知るにいたらんと」・・アブラハム近よりて言いけるは「汝は義者をも悪者とともに滅ぼし給うや。もし町の中に五〇人の義者あるも汝なおそのところを滅ぼし其中の五〇人の義者のためにこれをゆるしたまわざるや。」

 アブラハムはこの後、四五人、四〇人、三〇人、二〇
人、と数をへらして神様に訴えた。

アブラハム言う「請う、わが主怒らずして今一度言わしめたまえ、もし彼処に一〇人看えなば如何。」
エホバ言いたもう「我一〇人のために減ぼさじ。」

 人間同士のやりとりであったらどうだろうか。二、三回は答えたとしても、数が重なるにしたがって、
「いいかげんにしなさい!しつこいぞ。」
とおこられるのがおちだろう。

ルカ伝一八章一節以下、
また彼らに落胆せずして常に祈るべきことを、たとえにて語り言いたもう・・・・

 「まして神は夜昼よばわる選民のために、たとい遅くとも遂に審き給わざらんや。我汝らに告ぐ、速かに審き給わん。」
あなたが祈るとき、あきらめることがないだろうか。私たちはどんな時に早くあきらめてしまうのだろうか。

ア.自分が正しいと考えるとき。
イ.自分が絶対悪いと考える時。
ウ.相手に対して憎しみをもっている時。

 神様の恵みとあわれみに頼りきる人はさいわいである困難な課題をかかえて祈り続けるとき、神様の愛を学び、忍耐を学ぶことが出来る。その上で神様の正しいさばきにすべてをおゆだねするのである。

 人は神に正義≠求める。だが人間はキリストに対して正しいさばきをおこなったであろうか。人がこの世の悪を見て、「神がいるなら、どうして悪人がさかえるのをそのままにしておくのか」と言う。

主その約束を果すに遅きは、ある人の遅しと思うがごときにあらず、ただ一人の亡ぶるをも望みたまわず、すべての人の悔い改めに至らんことを望みて、汝らを永く忍びたもうなり。
  (ペテロ後書三章九節)

家族の救いのために祈りつづけよう。(続く)   ■
 
 

◎ 暗誦聖句   マタイ伝一章二一節  
かれ子を生まん、汝その名をイエスと名づくべし。 己が民をその罪より救い給う故なり。
 
 


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