◆ アブラハムの生涯(15)

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年七月一六日号 
        ▽神のみ言葉に立ち、生きよう

これらの事の後神アブラハムを試みんとて之を
 アブラハムよ
 と呼びたもう。彼言う、
 我ここにあり。
 エホバ言い給いけるは、
 汝の子汝の愛する独子
 即ちイサクを携てモリヤの地
 に到り、わが汝に示さんとする
 彼所の山において彼を
 燔祭として献ぐべし。

九節
 アブラハム彼処に壇を築き
 柴薪をならべ其子イサクを縛りて
 これを壇の柴薪の上に置せたり。
 かくしてアブラハム手をのべ、
 刀をとりてその子を宰んとす。
 時にエホバの使者天より彼を
 よびて・・・言いけるは、
 汝の手を童子に按るなかれ、
 また何をも彼になすべからず、
 汝の子即ち汝の独子をも
 我ために惜まざれば
 我今汝が神を畏るを知ると。
   創世記二二章
   一ー一二節抜き書き

 クリスチャンは必ず試みを受ける。私たちをこころみる者として、サタンがあげられる。

 サタン(悪魔)は試みる者(マタイ四・三)とよばれている。主イエス・キリストもサタンの誘惑とたたかわれた。

サタンも己を光の御使いに扮えば、その役者らが義 の役者のごとく扮うは大事にはあらず、彼らの終局 はその業に適うべし。
    コリント後書一一・一四

 サタンの誘惑に勝つためには聖書の正しい解釈と、聖霊の助けによらなければならない。

 次に私たちをこころみるのは、環境である。

 人間は誰でも居心地の良さを求める。年老いて人生の終りを迎えようとする時、たいていの人は自分の生まれ故郷へ帰りたがる。山を見、あるいは海を見て心の安らぎを得ようとするのである。インドの人たちはガンジス川に集ってくる。環境は自分の力でかえることがむずかしい。その環境に慣れるか、甘んじるか、それとも困難にうち勝ってゆくかである。信仰者はどんな環境におかれても屈服しないで、神を見上げるのだ。

 第三に、神ご自身にこころみられることがある。これは大変に恵まれた経験と考えてよかろう。神様はアブラハムの信仰の円熟期にこのこころみをおあたえになったのである。

 自分の愛するひとり子を犠牲としてささげよというご命令であった。自分の肉的なつながりも将来の夢も何もかもすてて、ただ神の御手にささげよという試みだ。
                                    ( 続 く )
 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝 一章十九節  
夫ヨセフは正しき人にしてこれを公然にするを好まず、 ひそかに離縁せんと思う

                     


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