◆ アブラハムの生涯(16)
習志野バプテスト教会週報
こころみにも度合いがあるといえば、おかしいだろうか。赤ちゃんがまだ小さい時に母親は「立て、歩け、」と赤ちゃんを責めるだろうか。お母さんは赤ちゃんの成長に応じて加減をしながら訓練をする。 汝らが遭いし試練は人の常ならぬはなし。神は真実なれば、汝らを耐え忍ぶこと能わぬほどのこころみに 遭わせ給わず。 汝らがこころみを耐え忍ぶことを得んために、之と共にのがるべき道をそなえたまわん。
アブラハムが神様にためされたとき、それ自体が祝福であったとはいえないだろうか。おいのロトは、神さまにこころみられていなかった。むしろ、ソドムが彼をさそったのである。 信仰がすすむにつれて、神様のこころみも大きくなっていく。人間の世界になぐさめを求めようとするならば失望する。ほかの人に話しても問題の根本的解決にはならないのだ。なぜなら神様のご計画を前もって知ることがむずかしいのだから。 ダビデはそのことを経験的に学んだ一人である。
創世記二二章三節
アブラハムが朝早く起きた理由は何であったろうか。 私的なとらえ方をゆるしていただくとすれば、私はここにアブラハムとサラとの信仰の度合いの差があったと思う(創世記一八章一三、一五節)。そしてサラの、女性として母としての愛と苦悩を考えるならば、アブラハムはこの朝早く出発することで、サラにはイサクの犠牲のことを何も話さなかったのではないかと思う。せっかくあたえられたイサクを失うことになったらサラはどれほど苦しみ、そしてアブラハムの信仰を責め、果ては神様に対して呪いの言葉を口にするかもしれないではないか。ここにも信仰のテストの個人性をみる。 使徒パウロは信仰の個人性を強く味わい考えた人物であった。ガラテヤ書一章一五ー一七節をみてみよう。 ・・・われ直ちに血肉と謀らず、・・・人々に遭わん とてエルサレムにも上らず、アラビヤに出で往きて遂にまたダマスコにかえれり
◎ 暗誦聖句 ルカ伝十一章二十八節
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