◆ アブラハムの生涯(18)
習志野バプテスト教会週報
創世記二二章九節ー十四節 ついに神の彼に示したまえるところにいたれり。ここにおいてアブラハムかしこに壇を築き柴蒔(たきぎ)をならべその子イサクをしばりて之を壇のたきぎの上にのせたり。 かくしてアブラハム手をのべ刀をとりてその子を殺さんとす。時にエホバの使者(つかい)天より彼を呼びて「アブラハムよ、アブラハムよ」と言えり。彼言う「我ここにあり。」使者言いけるは「汝の手を童子(わらべ)につくるなかれ、また何をも彼になすべからず、汝の子即ち汝の独子(ひとりご)をもわがために惜しまざれば我いま汝が神をおそるるを知ると。」 ここにアブラハム目をあげて見れば後(うしろ)に牡綿羊(おひつじ)ありてその角やぶにかかりたり。アブラハム即ち行きてその牡綿羊(おひつじ)をとらえ、これをその子の代りに燔祭(はんさい)としてささげたり。アブラハムそのところをエホバ・エレ(エホバそなえたまわん)と名づく。これによりて今日もなお人々山にエホバ預備(そなえ)たまわんという。 感謝なことにこの週報は聖書を持っていないかたも多く読んでくださっている。そういうかたのために時々長い引用をするのだが、聖句の一つ一つに思いをはせて黙想することも大切ではないだろうか。 この時イサクが何才であったかははっきりしない。注解書によって少年から三十才代の成人にいたるまでのはばがある。若ければ若いなりに、そして成人であるならばそれなりに父と子との会話は重みを増す。それにイサク自身の信仰が強くなければこんなことは実行しえなかったであろう。イサクの信仰が強くなければ? むしろ彼が父親に従順で「自分の意志を持たないほどの弱虫でダメな人間」と考えることが妥当なのであろうか。何しろ族長は強大な権力の持ち主であったから。 信仰の強さはむしろ神への従順、よろこんで自分自身を祭だんに横たえる姿と一致すると私は考える。日本人はよく、信仰を求めるほど自分は弱虫ではない、と言う。信仰は人間の強さ弱さと同じではない。たしかに力の強い人は少ないかもしれないが、神さまが共についてくださる時に強くされるのである。 エレ≠ニは「必要を前もって知る」とか「そなえる」という意味だから、「神様は私たちの必要をご存知であって前もって必要なものを用意していてくださる」ということなのだ。
エホバ・エレ≠ヘあなた自身の適用を待っている。
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