◆ アブラハムの生涯(19)

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年九月三日号 
        ▽聖書通読、祈り、救霊の秋

かくて、わが神は己の富に従い、キリスト・イエスによりて、汝らの凡ての窮乏を栄光のうちにおぎない給わん。=@        (ピリピ書四章一九節)

汝らを召したもう者は真実なれば、これを成し給うべし。=@      (テサロニケ前書五章二四節)

 アブラハムの生涯は勇気、知恵、決断、信仰でいろどられている。それを可能にしたのは彼の素姓でも教育でもなかった。まさに全能の神のあわれみによることであった。

エホバ・エレ(=エホバ備えたもう)≠ニいう約束は永遠の死から私たちを救う犠牲を用意するだけでなく、私たちに神の約束が成就するために必要なすべての力がそなえられるということでもある。

 神の私たちに対する目的は、私たちがキリストのおすがたに似るようになることである(ロマ八・二九、ガラテヤ四・一九)。神のご計画は私たちの内にキリストの聖さがつくられていくことであり、そのために必要なものはととのえられている。

 アブラハムが神の約束に対する確信を得たのはいつであったろうか。家族と共にいた時であったか。それともイサクをしばって祭壇の上にささげた時であったか。註解者たちは言う、彼が神の命に従ってイサクをささげたあとで確信があたえられたのだと。

 私たちが必要とするものすべてがそなえられるのは、全焼のいけにえを私たちがよろこんでささげる時にのみである。
全能の神(=エロヒム)として神はアブラハムにイサクをささげるように求められたが、エホバ神(人間に対して限りない愛をあらわしてくださる神)として、アブラハムが心からささげたイサクの代りに犠牲をご用意くださったのである。

 ある詩人は書いている。

「わずらわしい問題がおしよせ、危険がおそうとも  すべての友がうらぎり、敵が心を一つにしても、  たとえ何がこようと、一つのたしかなことがある、 聖書は『主がそなえたもう』と我らに確信をあたえていることだ。」

 私たちは毎日の小さく見える出来ごとの中にもやさしい神のみ手をみることが出来るように訓練されるなら、どんなにさいわいだろう。信仰は人生の一大決意の時にだけ取り出して使う武器ではない。毎日の神への献身、従順、忠実な歩み、あかしの継続こそ真の力を生み出すアブラハムの信仰ではないだろうか。
             (このシリーズ終わり)

◎ 暗誦聖句  マタイ伝四章七節『 』内  
 


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