◆ 勝利への道(2)

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年九月一七日号 
        ▽未開拓の地区に福音を
 

 私たちは「成功」という言葉にずい分まどわされ、なやまされ続けてきたのではないだろうか。

 整髪料にまで「サクセス」という日本なまりの名前がつけられている時代である。結婚した女性は男・女の産み分けにまで成功(?)を求めて海藻るいを食べたり野菜を食べたりする。本屋の書棚には「成功シリーズ」が続々と並べられている。セールス、受験、勝負ごと、株マネー・メイキング、クイズなどなど。

 今や女性ならずとも減量にいどむ人は大変多い。飽食の時代という言葉の裏では、「ハウ・ツウ(いかに)やせる?」かくれた戦いがある。アメリカの大企業では管理者のウエイト・コントロール(体重よくせい)が必須条件で、社長クラスといえどもこれに失敗すると首をきられるという。

 米国の飛行機で太平洋を横断した時に機内で映写されたのは成功者の物語であった。日本の長者番付などというのも一般庶民には食欲を増す話題ではないから、機内映画の意図がよくわからない。飛行中、ビジネスマンたちは休まるどころではないであろう。

「人を成功にみちびくのはその人の能力とか敬虔さではなく、その人の中に働く神の力による。成功はキリストの御力がどれだけそのしもべの中にあらわされるかにかかっている」とこの問題にとりくんでいるクリスチャンの社会学者は言っている。

 旧約聖書の歴代志略下二七章六節にはこうある、
ヨタムその神エホバの前においてその行いを堅うした るによりて権能ある者となれり

 人間はすぐ目に見えるかたちでの成功を考えるが、そのためにおこる弊害ははかりしれない。

 オリンピックのニュースで毎日大さわぎだが、日本の選手たちは気の毒である。「がんばれ!」の声援がプレッシャーとなってしめつけるのだ。

 黙示録二章一〇節の聖句をよくあじわってみようではないか。人間の評価がすべてではない。

汝死に至るまで忠実なれ、
  さらば我汝に生命の冠をあたえん

 神の基準はたんなる成果ではないことがわかる。旧約時代のエレミヤはどうであったか。涙の預言者といわれた人であり、彼の働きは現代の人の評価でいうならば失敗であった。しかし神様は彼を評価なさっていらっしゃる。

 この世にあって人間社会の通念から完全に脱却することはむずかしいことにちがいないが、毎日毎日あたらしい思いで神様に従う一歩をすすめたいものだ。
 

◎ 暗誦聖句 コリント前書十章十三節B、C 
神は真実なれば、汝らを耐え忍ぶこと能わぬほどの
 試練に遭わせ給わず。=@            
 
 


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