◆ 勝利への道(3)
習志野バプテスト教会週報
われは愛情をよろこびて犠牲をよろこばず、
各地で秋祭りがさかんな季節となった。 クリスチャンになるまえには嬉しい秋であった。暑い暑いとこぼした夏も終り、リンゴ、ブドウ、柿、くり、菊、色とりどりの果物や花がいっぱいで、自分が豊かになったような気分であった。祭りの笛やタイコの練習の音が聞こえてくると何となく浮き浮きした気持ちとなったりしたものだ。 神様のあわれみで罪をゆるされ、新しい者とされてからはこのお祭りがよろこびではなくなった。 日照りが続くといっては雨乞いをし、雨が多いと日照りを願う。誰に願い、祈りがきかれるのであろうか。祭りには酒がつきものである。そして若者をはじめとして村中、町中の人が無礼講となる。豊作だといってはさわぎ、不作だといっては不景気を追いはらう乱痴気さわぎをするのが常。 自分たちの手ではどうしょうもない天候にため息をつく人間の歴史である。そこには目に見えない力≠ノ対する恐れと叫びがあるようだ。 旧約聖書中にも類似の偶像礼拝が描かれている。バアルとかアシタロテ信仰は、穀物がゆたかに収穫出来るようにとの願いがつくった宗教である。 大豊作とか、大勝利には落し穴がある。自分の力に酔いしれてしまい、人間の本分を忘れてしまうのだ。旧約の大預言者エリヤも似た経験をしている。 人は成功とか勝利を手にしたとき、それがいつまでも続くように願う。そして一瞬でも失敗をしたり敗北を喫することをおそれる。 イスラエルの初代の王サウルは、はじめ良く終りが悪かった典型である。彼は恐れる必要のない時におそれ、おそれるべき時、おそれるべきお方に対して不遜な態度をとって大失敗をしたのだ。 サウル王は神さまによって立てられたのだが、その全能の神に信頼し、信仰をあつくしていれば不安におびえることはなかったはずである。 彼は神様の律法をやぶって、祭司の働きを自分の手でおきかえようとし(サムエル前十三章九節以下)、アマレク人とその持ち物をことごとくほろぼすように命じられた神のご命令にそむいた(サムエル前十五章三節以下)のである。 神様にさからって人間に平安があるであろうか。
◎ 暗誦聖句 ペテロ後書二章九節A
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