◆ 勝利への道(4)

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年一〇月一日号 
        ▽刈り入れは多い
 

……かしこの山辺に豚の大なる群、食しいたり。

 悪鬼どもイエスに求めて言う。「われらを遣して豚 に入らしめ給え。」イエス許したもう。穢れし霊いで て、豚に入りたれば、二千匹ばかりの群、海に向いて、 崖をかけくだり、海に溺れたり。飼う者ども逃げゆき て、町にも里にも告げたれば、人々何事の起りしかを 見んとて出づ。かくてイエスに来り、悪鬼につかれた りし者、即ちレギオンをもちたりし者の衣服をつけ、 たしかなる心にて座しおるを見て、おそれあえり。

 かの悪鬼につかれたる者の上にありし事と、豚の事と を見し者ども、之をつぶさに告げたれば、人々イエス にその境を去り給わんことを求む。……
         (マルコ伝五章一節ー二〇節抜粋)

 墓を住みかとしていた二人の男がいた(マタイ伝、ルカ伝参照、各八章)。その中の一人は特に凶暴であって、くさりでつないでも静めておくことが出来なかった。あきらかに人間の通常の生活、力を越える悪霊の働らきだとわかる姿であった。

 この男の状態は多かれ少なかれ私たちの不信仰、罪の姿をあらわしている。罪は神様に対する不従順、不信仰であり、創造主に対する反抗である。自分自身の心の迷いなどという性質のものではない。

 彼は自分自身をおさえることが出来なかった。罪の力は人を無力にし、悪を行わせる。自分だけが苦しむのではなく、まわりの人に対してもさまざまな害をもたらす。この男のすみかは墓場であった。墓場は人間の住むところではない。

 アルコールにおぼれて毎日すごす人も彼と同じ所にすんでいるといえないだろうか。愛情も理性も平安もない世界であるのだから。彼は家族を持ちながら自分勝手な生き方で家庭を破かいしていた(マルコ五章一九節)。彼は一人ぼっちであった。罪は人間を孤独の世界に追いやる。

 主イエスはこの男に深いあわれみをかけられて、彼を苦しめているものから解き放たれた。文字どうりのエグゾーサイズ(悪霊ばらい)であった。その時に悪鬼どもは近くにいた豚に入り死にいたらせたと記されている。イスラエルの人は絶対に豚とかかわりをもつことがゆるされなかった時代である。

 豚飼いたちは突然の出来ごとにぼうぜんとするばかりであった。彼らは日頃おそれていた神のさばきがくだったと思った。目の前には悪霊から自由になった男が身づくろいしてすわっているのを見てなおさらおどろきおそれた。せっかく神様の祝福を受けられるチャンスであったのに持ちものを失うおそれで神をこばんだのだ。
                                   (つづく)
 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝 四章一九節『 』内 
我に従い来れ、さらば汝らを人を漁る者となさん=@   
 
 


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