◆ 勝利への道(6)

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年一〇月一五日号 
        ▽聖書原理を生活に
 

 信仰はむずかしくて、困難が多いと考える人が多い。かたくるしい戒律と儀式でガンジガラメになるのは嫌だという声もある。

 仏教に小乗仏教と大乗仏教があることからでも想像がつくように、人間の作った宗教は、きびしいか、ゆるいかのどちらかである。

 使徒パウロはローマ人への手紙十四章一節以下に、
汝ら信仰の弱き者を容れよ
と教会につらなる人たちの中にも強弱があることを認めている。

 自分は信仰が強いと考える人は、むしろ自分自身の弱さを知らない人だといえるかもしれない。

 「私は信仰が弱くてとても皆さんについていけません」ということを聞くとかえってその弱さにその人のまじめさを感じることさえある。強いと考える人は神様に完全に敗北宣言をしていないのかもしれない。

人もし有ること無くして自ら有りとせば、これ自ら欺くなり。各自おのが行為を験しみよ、さらば誇るところは他にあらで、ただ己にあらん
            (ガラテヤ書六章三、四節)

 自分は強くならなければいけないと考えるとき、キリストの力に完全にたよることを忘れて、自分で始めて、自分で結果をつみとることになる。

 信仰における勝利とは、自分ではなくて、キリストがどれほど私を支配し、コントロールしてくださるかにかかっているのだ。

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★ 聖書を学ぼう!

  聖書で学ぶのではなく、聖書を学ぶのだ。学ぶとい っても知識を蓄えるのではない。霊の糧である御言葉 そのものをたくわえるのだ。聖書を学ばねば霊的にや せおとろえ、死につながるからだ。「学ばなければな らない」のである。霊的に、これは死活問題である。 信仰生活を続け、成長し、神により近づけられるよう 望むならば、日々聖書を学び続けなければならない。

  又、学び続ける事によって益々確かな信仰が与えら れ、神に似た者とされる。ということは、罪への嫌悪 と神の潔さへの憧れを強く求めることになる。この 罪の世に住む者にとって、何と祝福された事だろうか。

  御言葉によってどちらの方向に歩めばよいか、はっ きり分かる。御言葉によって明るく照らされた光の道 が示されるのだ。判断に迷う時、私達を間違いなく導 いてくれるのは聖書である。

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◎ 暗誦聖句 マタイ伝 五章四節  
幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。
 
 
 


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