◆ 勝利への道(9)

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年一一月五日号 
        ▽パウロに学ぶ勝利の秘訣
 

 福音をひろめることに参加をするというピリピ書一章五節の聖句の中にはいろいろな意味がふくまれている。

 まず第一に、自分自身が神様の救いを受けていなくては他の人に良い知らせを伝えることは出来ない。世間にはいろいろなセールスがあって、戸別訪問をする人が年をおってふえている。私たちが教会の案内を持っておたずねすると、
「うちは結構です、まにあっています。」
などという返事がかえってくる。

 異端の人たちは毎週のように訪問してきてしつこく「聖書の勉強」にさそう。その熱心さは相手の救いを願っての訪問ではなく、自分自身の救いの条件をみたすためであるから、彼らをほめるのは間違いだという回心者の話である。

 使徒パウロは信仰のまじわりを強調した。私たちの教会ももちろん他の教会と良いまじわりが出来るように願っている。パウロは「教会」という名がつけばどこの教会とでもまじわるようにすすめたかというと決してそうではない。伝道者が同じ神学校を卒業したからといって教会同志のまじわりが深められるのではない。

 パウロはエペソ書において、真のまじわりには教理的な一致がなければならないと強調している。信仰には妥協をゆるさない一面がある。信条をとなえるだけで信仰の実践がともなわなかったり、あるいは聖書の教えに対して甘いとりくみ方、この世的な姿勢をとるならば、福音をひろめるための一致はない。「愛による一致」という言葉にまどわされて真理に立つことを忘れるならば、サタンのよろこぶところである。

常に汝ら衆のために、願いのつどつど喜びて願いをなす=i四節)

 パウロはピリピのクリスチャンたちをいつも祈におぼえていた。夜、彼が祈る時に眼をとじると、ピリピの忠実な信者たちの名前が次々と頭にうかんだのである。それほどに一人一人との結びつきが強かったということである。クリスチャンのまじわりは面とむかって話をしている時だけのものではなく、遠くはなれていても祈を通してまじわるのである。そこには真実の家族愛、兄弟愛がつちかわれる。一人ぼっちではない強さが生じる。

 まじわりというのは双互の助け合いである。常に一方だけが何かをするというのは、まじわりではない。それは応援である。

 宣教師、あるいは開拓中の伝道者が母教会や各地の支援教会に伝道報告(又は祈の手紙)を送ることには意義がある。お互いの関心を形でもあらわそうではないか。
                  ( 続 く )

 
◎ 暗誦聖句   マタイ伝五章七節  
幸福なるかな、憐憫ある者。
     その人は憐憫を得ん。     


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