◆ 勝利への道(11)
習志野バプテスト教会週報
不信者と軛(くびき)を同じうすな、つりあわぬなり、義と不義と何のあずかりかあらん、光と闇と何のまじわりかあらん。
使徒パウロは「キリストにある交わり」とは、ただ単にいっしょに伝道することではないと語っている。コリント人への手紙もパウロが書いたのだが、それを読むと「いっしょになる」ことよりも、「わかれる」(分離)ことを強調している。 キリストとベリアル(よこしまな者=サタン)と何の調和かあらん、信者と不信者と何の関係かあらん。 神の宮と偶像と何の一致かあらん、…… このゆえに「主言い給う、汝らかれらの中より出で、これをはなれ、けがれたる者にさわるなかれと。さらば我汝らを受け、われ汝らの父となり、汝らわが息子・娘とならんと全能の主言い給う」とあるなり。
現代は妥協の時代といえよう。政治において然り、教育においてしかり。宗教においてもしかりである。昨今の宗教界は全く「垣根」を除(のぞ)いて神仏混交をすすめている。特にローマ法皇が熱心にその動きを推進しているから理解に苦しむ。聖書の教えとどのように一致をさせることが出来るのだろうか。 福音のまじわりにあずかるということは、神様の側につくことを意味しているはずである。神様が禁じておられる交わりは、「愛」という美名のもとにおこなってはならないものである。分離(セパレイション)ということを言うと必ずこの愛の一致という反対が言われる。 私たちは信仰生活の土台を何においているのであろうか。神のみ言葉の基準をぬきにして人間の感情や、社会通念だけで行動するならば、砂の上に家を建てる=iマタイ伝七章二十四節以下)おろかな者となってしまう。私たちは毎日の生活でこの取捨せんたくをせまられている。幼児ゆうかいという悲しいことがあいついでいるが、信仰の世界でも言えることであろうと思う。本当の親のことばをえらぶか、ゆきずりの人の言葉をえらぶかは、アダムとエバの時以来のむずかしい選択である。神様のみ言葉だけに聞き従うならば必ず勝利があたえられるのだが、人間はなかなかそれが出来ない。まわりの人の気嫌をそんじないようにとか、みんながそうするからと世に流されてしまう。 信仰はたたかいである。まず私たちの戦いの相手が悪魔であることを心に言いきかせよう(エペソ書六章十節以下)。そして神の武具を身につけようではないか。
◎ 暗誦聖句 詩篇 三一篇十五節A
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