◆ 勝利への道(12)
習志野バプテスト教会週報
今年も残すところわずかとなりました。あわただしい中にあって、神様のお恵みとお守りが豊かにありますようにお祈り申し上げます。 毎週一回のこの週報も全国に散在する兄姉に読んでいただいていて感謝しています。 小説家のばあいには創作や架空のストーリーでその個人的生活をとやかく言われることはないのですが、伝道者のばあいにはそうはいきません。書いたことは実践しないとすぐ捨てられてしまいます。信仰即実践、生活即信仰でなければならないと思います。 有名なバプテストの伝道者スポルジョンは、
皆さんにおすすめしている神様のお言葉を私自身の生活にいかして進もうと祈っています。 ▽我は卑賎におる道を知り、富におる道を知る。また飽くことにも、飢うることにも、富むことにも、乏しきことにも、一切の秘訣を得たり。我を強くしたもう者によりて、凡ての事をなしうるなり。
使徒パウロは信仰者のよろこび、力、希望を絶えず人人に伝え歩いた。東洋思想の中にある禁欲主義ではなく、あるいは仏教のぼんのうを超越する思想でもない。 パウロは十一節に、我はいかなる様におるとも、足ることを学びたれば≠ニ書いている。 足ることを学ぶということは、あきらめではないし、よくあつでもない。彼は耐えるとは言っていないのだ。学ぶという表現は、経験と高い目あてを暗示する。 ふりかえって私たちの生き方に満足があるだろうか。昔のことを言って恐縮だが、戦争中、砂糖が手に入らなかった。食糧も不足した。その頃さつまいもで作った甘味料や水あめがとてもおいしかった。無い時にほしがるのと、今のように豊富にある時に欲しがるのとでは意味がちがう。 この世のたからは永久のものではない。 他人の持ちものをうらやましがるのは子供と同じだ。 神様が「なくてはならぬもの」は何かと問いかけておられる(ルカ一〇章四一、四二節)。 全て必要なものを神様があたえてくださると悟ったら、何もかも今すぐ手に入れたいという欲望に負けないはずだ(マタイ六章三三節)。目を神に向けよう。
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