◆ 勝利への道(13)
習志野バプテスト教会週報
私たちは勝敗を考えるときに、個人の努力を求めることが多い。オリンピックの競技でも選手たちが負わされるプレッシャーは大変なものらしい。人間のからだは努力だけで本来の体力を完全に別のものにかえられるものではないから、禁止されている薬物を使って自分の体力をこえようとする。 信仰生活の勝利とは個人の努力を強調することではない。もちろん全く何もしないというわけではない。自己の力の限界に挑戦することは成長に益となる。 使徒パウロが出会った困難の数々は彼を霊的に高める働きをした。困難が人の心をかたくなにするばあいもあることを思えば、パウロの偉大さを考えずにはおられない。だがパウロの勝利のひけつはその偉大さにあったわけではない。
もしその子わが法をはなれ、我が審判にしたがいて歩まず、わが律法をやぶり、わがいましめを守らずば、われ杖をもて彼らのとがをただし、鞭をもてその邪曲をただすべし。されど彼よりわが憐憫をことごとくは取り去らず、わが真実を衰えしむることなからん。=@ 詩篇八九篇三〇〜三三節 汝らのために天に蓄えある、朽ちず汚れず萎まざる嗣業を継がしめ給えり。汝らは終りのときにあらわれんとて備りたる救いを得んために、信仰によりて神の力に守らるるなり。=@
あなたが自分のことに夢中で、他人から何かをもらったり、何かをしてもらうことばかり考えているとしたら、心が満たされることがないであろう。すでに敗北してしまっているのだ。自我という大敵は決して満足することがない。 パウロは自分のためではなく、いつも主キリストの栄光のため、神様のご用のために自分をささげたのだ。その歩みの中に彼の力とよろこびがあった。 我らをキリストの愛より離れしむる者は誰ぞ、患難か、苦難か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。・・・されど凡てこれらの事の中にありても、我らを愛したもう者に頼り、勝ち得てあまりあり。
◎ 暗誦聖句 マタイ伝五章四節
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