◆ 勝利への道(14)

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇〇年一二月一〇日号 
        ▽聖書通読をはげもう
 

我は祈る、汝らの愛、知識ともろもろの悟とによりて、いやが上にも増し加わり、善悪をわきまえしり、キリストの日にいたるまで潔よくしてつまずくことなく、イエス・キリストによる義の果を充して、神の栄光と誉とをあらわさんことを。=@
               ピリピ一章九ー十一節

 昔の哲学者は、「汝自身を知れ」と言った。

 自分より力の強い人、すぐれた人と争って負けると、「身のほどを知れ」と悪口をささやかれる。世の中にはいろいろな学問があるが、人間を知る学問はないといえよう。心理学はそれだけで人間学ではない。文学も文化も社会学もそれなりの意義があるとはいえ、
人間そのものを知るすべではない。

 ある特定の民族だけでなく、人間そのものを知るためにはどうしても正直な記述を読まなければならない。そして人間の背後に働く見えざる力を認識しなければ人の弱さを知ることは出来ない。

 人は神の前に立たされてはじめて「自分」の姿を見ることが出来るようになる。神を知るということは自分を知ることと無関係ではない。

 神についての正しい知識を持ち、神の方法についてよく学ぶならば、人は神を愛することと他の人を愛することとを学ぶのである。
使徒パウロはここでも祈を強調している。祈りには二つの目的がある。手近な目的について何が一番良いかを判別することと、遠い未来については、きずなく責められるところのない者とされることである。

 わきまえる・・・通貨や金属を基準に、てらし合わせて見分けることから使われている言葉。

 いさぎよい(けがれがない)・・・「太陽」の語源から出た言葉とされる。太陽の強い光に照らして判別することである。

 十二節から十四節を読むとパウロの投獄が述べられている。投獄さえも神は福音伝播のためにお用いになったのであり、神のご計画にくるいがないことを知らされる。

 私たちは自分の都合のよいように物事を考え、事をはこぶ傾向があり、自分の思いどうりにならないと、幼児のようにダダをこねたり、ペシャンコになってしまうようだ。

天が下の萬の事には期あり、萬の事務には時あり。・・・神のなし給うところは皆その時に適いて美麗しかり。
              伝道の書三章一、十一節

神の全知に身をまかせるなら勝利がある。 (続く)

◎暗誦聖句  マタイ伝五章五節
 


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