◆ 勝利への道(20) 
                  

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年二月四日号 
        ▽創造主を畏れうやまう
 

 旧約聖書にみられるイスラエルの割礼は何を意味したのだろうか。

しかして汝の神エホバ汝の心と汝の子供の心に割礼をほどこし、汝をして心をつくし精神をつくして汝の神エホバを愛せしめ、かくして汝に生命を得させたもうべし。=@         
(申命記三〇章六節)

 イスラエル人は肉の割礼を誇りとした。その割礼を救いの必須条件と考えて、信仰による救いを受け入れようとしなかった。

 殉教者ステパノは、
うなじ強くして心と耳とに割礼なき者よ、汝らは常に聖霊に逆う、その先祖等のごとく汝らも然り。≠ニ語っている。     
(使徒行伝七章五一節)

 使徒パウロは自分自身の半生をふりかえり、律法によっては救われないことを同族に強く訴えた。

この故に兄弟たちよ、汝ら知れ。この人(キリスト)によりて罪のゆるしの汝らに伝えらるることを。汝らモーセの律法によりて義とせられえざりし凡ての事も、信ずる者は皆この人によりて義とせらるることを。=@          
(使徒一三章三八、三九節)

それ表面のユダヤ人はユダヤ人たるにあらず、肉にある表面の割礼は割礼たるにあらず。穏なるユダヤ人はユダヤ人なり、義文によらず、霊による心の割礼は割礼なり、その誉は人よりにあらず神より来るなり。           
(ロマ書二章二八、二九節)

 私たちは家系とか育ちを人間評価の基準としがちである。だが神様の救いはイエス・キリストの十字架以来、すべての人に開かれ、平等である。

神はただユダヤ人のみの神なるか、また異邦人の神ならずや、しかり、また異邦人の神なり。神は唯一にして割礼ある者を信仰によりて義とし、割礼なき者をも信仰によりて義とし給えばなり。さらば我ら信仰をもて律法を空しくするか、決して然らず、かえって律法を堅うするなり。=@  
(ロマ三章二九〜三一節)

 パウロはピリピ書三章一五節以下に、信者がどのような日々の歩みで神によろこばれるのかを説いている。初代教会時代に強かったグノーシス派の人たちは、キリストによりたのむよりも、自分の努力を誇りとした。結局神様にほまれを帰するよりも自分を誇ったのである。

 過去の失敗を悔やんでばかりいるのも、あるいは成功をほこるのも、ともに霊的な成長の敵である。一五節には、真の目的を忘れる人は未成熟だとさとされている。

 勝利は人間の努力や精神によるのではなく、キリストによりたのむところにあることを確認しよう。あなたはよろこびを奪われていないだろうか。
                 ( 続 く )
 

◎ 暗誦聖句 ヨハネ黙示録三章三節D 
もし目を覚さずば 盗人のごとく我きたらん=@

                                       


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