◆ 勝利への道(21)
習志野バプテスト教会週報
古典落語に、こごとこうべいという人物が登場する。口を開けば家族や使用人を叱ってばかりいる。まわりの人がいっしょうけんめい仕事をするのだが、よろこんでくれない。ある日、小言を言われることのないように皆が力を合わせて働らいて主人を迎えた。おどろいたことに、こうべいさんは「叱るたねがなくなった!」と言って皆を叱ったというオチがつく。 人間は弱く、もろい。大変理性的に行動するかと思うと、とつぜん感情的になったりする。理性的になろうとする人の生き方を見ると、「あの人は冷い」、「よくもあんなに割りきれるものだ」と言う。日本人は情にもろい人を好むのであろう。政治家の言動を見るとそういう傾向が強い。何かの会合で、いわゆる正論を言う人は煙たがられたりする。 使徒パウロの書いたピリピ書を読むと、日本人である私たちに大変役に立つ生活の指針がえられる。喜びをうばうものに注意をするよう教えられてきたが、どうやらポイントは自分自身にあるらしい。こごとを言うことに満足を見いだす人は気の毒だが、私たちも似たりよったりではなかろうか。自分をあわれむ人、自分のわがままを通そうとする人、受けることだけであたえることのない人、心配ばかりする人、人の噂や批評を気にして悩んでばかりいる人など様々である。 パウロはピリピ書四章において、よろこびをうばうものの一つに、生活の思いわづらいをあげた。主イエスはさらば何を食らい、何を飲み、何を着んとて思いわづらうな=iマタイ六章三一節)とおっしゃった。 人間の幸福の基礎は思考(黙想)にあるといわれる。 シェイクスピアは言った、「世の中には善いも悪いもない。人の考えがそうするのだ」と。 使徒パウロはクリスチャン一人一人に「我らの国籍は天にあり」、「我らのいやしき状の体を代えて栄光の体にかたどらせ給わん」(ピリピ三章二〇、二一節)と記し、だからこそ、「主にありて堅く立て」(四章一節)とすすめている。いつも不平不満のかたまりであったら喜びは寄りつかない。この世の思いわづらいで信仰の喜び、神への信頼をそこなわれてはならないのだ。 我はいかなる状におるとも、足ることを学びたればなり。
私たちの喜びは、神の愛、保護、約束の上にある。たしかな霊魂のよりどころである主の御腕の中にいこう者はさいわいである。 エホバをよろこぶことは汝らの力なるぞかし。
( 続 く )
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