◆ パウロの生涯(二)
                  

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年三月四日号 
        ▽生命の信仰を手に

エチオピア人その膚をかえうるか、豹そのまだらをかえうるか。もしこれをなし得ば、悪に慣れたる汝らも善をなしうべし。=@ エレミヤ記一三章二三節

 使徒パウロは宗教的な家庭に育った(使二三・六)ばかりでなく、彼自身が大変熱心なパリサイ派に属していた。生まれつきローマの市民権を持ったほど(使二二・二五〜二八)であるから当時の社会においても相当高い地位にあった家族のようである。母親についての記述はないが、姉妹がエルサレムに住んでいて(使二三・一六)、パウロの生命に危険がせまった時に、その子供がパウロを助けたことがある。

 パウロはごく小数の人しか受けることの出来なかった高等教育を受けた(使二二・三)。だがこの世の学問は神の知恵の前にあっては、くずのようなものだと後に言っている(ピリピ三・八)。

 パウロの回心とその後の大転換は、使徒行伝九章以下一一章に述べられている。パウロは自分の中にある罪の問題を決して過少評価しなかった。他人の生活や信仰の熱心さと自分とを比較して罪人の首と言ったのではない。人間が黒い皮ふの色を変えられないように、あるいは豹があのハンテンを変えられないように、人間の罪けがれは、どうしようもない力で人間をとりこにしていることを実感したのだ。

 回心!それこそサウロが天からの光によって経験し、すべての人にとって絶対に必要な救いの条件であることを証言している。クリスチャンたちをとらえ死にいたらしめた迫害者の回心ほどユダヤ人に強いしょうげきをあたえたものはなかった。彼が回心の経験を語る時両方の眼から涙がわき出たことだろう(使二六章)。 

 回心とは自分のこれまでの生き方を否定することであり、神に無条件降伏と献身をすることであるから、人間のプライドが壁となる。

 神様に対する不従順、不信仰を悔いあらためる時、救いは一瞬にしてえられる。長い年月を必要とする継続的な経験ではない。救われて後に聖書の理解が進み、神の国のことが心に明らかにされるのである。
      ( 続 く )
 
 

◎ 暗誦聖句 ヨハネの黙示録 三章一九節  
凡てわが愛する者は、我これを戒め、これを懲す。  この故に、汝はげみて悔い改めよ。=@                
 


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