◆ パウロの生涯(三)
習志野バプテスト教会週報
使徒パウロの伝道を理解するためには生いたちと回心にいたるまでの経過を知ることが大切である。ほかの使徒たちがユダヤ人に伝道をしたのに、パウロは異邦人(ユダヤ人以外)に伝道の対象をおいた。彼の好みとか願いのためにではなく、神からあたえられた使命であった。 この人は異邦人、王たち、イスラエルの子孫のまえにわが名を持ちゆく我が選びの器なり。我かれに我が名のためにいかに多くの苦しみを受くるかを示さん
主イエスご自身の召しを受けてパウロは福音の使者になったのである。彼の宣教旅行に対して一部の人は反対の意見をもつであろう。その人たちは、「まだユダヤ人すべてに福音が語られていないのになぜ異邦人に伝えたのか」と言う。 これに似た議論は今日でもみられる。 「日本の国内にはまだ教会のない市町村がいくつもあるのに、なぜ海外宣教をするのか」というのだ。 自分の同族に対して伝道をしないのは愛がないという声もある。しかしパウロは強くその非難をしりぞけた。 我に大いなる憂いあることと心に絶えざる痛みあることとをわが良心も聖霊によりて証す。もし我が兄弟わが骨肉のためにならんには、我みずから呪われてキリストに捨てらるるも亦ねがうところなり。
現代の教会が主イエスの大命令である世界宣教にあたる時にも同じことがいえる。海外伝道を強調する教会は国内の伝道をおろそかにしているとはいえない。 「遠くまで照らす光は足元をも照らす」といわれるように、周辺の伝道にも熱心なはずである。なぜなら、救霊の原動力は霊魂を愛し、神の怒りから人々を救おうということであるから。 聖書に言う「すべて彼を信ずる者ははずかしめられじ」と。ユダヤ人とギリシャ人との区別なし、同一の主は萬民の主にましまして、すべて呼び求むる者に対して豊かなり。『すべて主の御名を呼び求むる者は救わるべし』とあればなり。
使徒パウロは単一民族と自己の救いというワクから出て、全世界をご支配なさる神の世界大のご計画に身をささげた。そのことがユダヤ主義者に生命をねらわれることにもなったのである。ロマ書一の五に曰く 我らその御名のためにもろもろの国人を信仰に従順ならしめんとて、彼より恵みと使徒の職とをうけたり
◎ 暗誦聖句 ヨハネの黙示録 一章三節
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