◆ パウロの生涯(四)
                  

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年三月一八日号 
        ▽御言葉のつるぎ、祈りの力
 

サウロは主の弟子たちに対して、なお恐喝と殺害との気をみたし、大祭司にいたりて、ダマスコにある諸会堂への添書を請う。=@ 使徒行伝九章一〜二節
 
 いま諸外国で起こっている民衆の蜂起は目をみはるものがある。フィリピン、インドネシヤ、ヨーロッパ、中国と、青年たちの熱気が国の歩みを変えつつある。かつての日本でも青年たちの力による改革があったことを思うと、これが同じ国民かと思われるほどおとなしくなってしまった。

 飽食の時代といわれるように、食べ物、着物、レジャー用品など街にはんらんをしている。かつての苦しさや忍耐を忘れて、その日その日を楽しんでいるのだ。よその国で自由を求める青年が生命を投げうってたたかっているのをテレビで見ても、自分たちが心をはげしく燃やすことは少ない。

 現代の若者の特徴は三無主義とか四無主義といわれて久しい。青年たちには失礼かもしれないが、若者の情熱を感じることが大変少なくなっている。若者の特徴である正義感とか独立心という意気ごみが見られない。自分に直接関係がなければ無関心であり他人が苦しんでいても助けようとしない。

 批判だけは成人顔まけであるが、その批判も大局的な見地からの批判ではなく、局所的、ヤジウマ的な言い方である。悪いところを直して良いものを作っていこうという建設的な考え方ではない。マスコミはそれに迎合する。

 サウロ(のちのパウロ)はクリスチャン迫害に燃えていた。自分がやっていることに自信を持っていた。自分の生き方に自負を持っていた。その人が復活のキリストに変えられた時、全世界をゆるがすような働きをすることになったのである。

 もしサウロに情熱が欠けていたら神様にもちいられたであろうか。もし彼に体当たり的な闘志がなかったら未知の世界につかわされたであろうか。もし彼がたんに自己中心の人物であったら異邦人伝道にもちいられたであろうか。

 私たちは「信仰は感情ではありませんよ」と言うことがあるが、救いそのものは感情に根拠をおかないとしても、信仰の実として感情の変化がおこされるのである。

 クリスチャンが日々の生活によろこびをもたないとしたら、どこかに欠けたところがあるのだ。罪のためであるか、健全な信仰の知識に欠けるか、あるいは自己中心でささげることのない生活かである。

我汝の行為を知る、汝は冷かにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷かならんか、熱からんかを願う。
黙示録三章一五節を味わおう。

    ( 続 く )
 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝五章六節  
幸福なるかな、義に飢え渇く者。その人は飽く事を得ん=@ 
 


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