◆ パウロの生涯(五)
習志野バプテスト教会週報
(サウロ)行きてダマスコに近づきたる時、たちまち天より光いでて、彼をめぐり照らしたれば、彼、地に倒れて「サウロ、サウロ、何ぞ我を迫害するか。」という声をきく。彼言う、「主よ、汝は誰ぞ。」 答え給う、「我は汝が迫害するイエスなり。起きて町に入れ、さらば汝なすべき事を告げらるべし。」同行の人々、物言うこと能わずして立ちたりしが、声は聞けども誰をも見ざりき。 サウロ地より起きて目をあけたれど何も見えざれば、人その手をひきてダマスコに導きゆきしに、三日のあいだ見えず、また飲み食いせざりき。 さてダマスコにアナニヤという一人の弟子あり、幻影のうちに主言い給う、「アナニヤよ。」答う、「主よ、我ここにあり。」主言い給う、「起きて直という街にゆき、ユダの家にてサウロというタルソ人を尋ねよ。みよ、彼は祈りおるなり。=@
サウロは復活の主イエスのお声を聞き、強い光で照らされてから三日間、目が見えなくなった。私たちは自分の肉体に何かの異常がおこるとすぐ悲観的になる。病気は神のさばきと考えてしまう。事故や過労とかで失明した人たちの苦しみは大変なものだという。「目の前がまっくらになった」という表現そのものである。 サウロにとってこの目の見えない三日間は苦しみの時であったのだろうか。一つの器管が働きをとめると、身体の他の部分が欠けをおぎなおうと働いてくれる。目に何もうつらないゆえに彼の霊は真理を探究したのではないか。 彼の心は活発に働き、ユダヤ全歴史を回想させた。アブラハムの信仰、モーセの律法、そして救世主の預言の数々。とくにメシヤ預言と型、幕屋と神殿構造の意味するところ、などについて思いめぐらした。それまで独立した律法と預言が、急に墓から骨が動いて連なる(エゼキエル三七・一〜一〇)ように、彼の心の中で大きな体系となった。聖霊の息吹を与えられて、彼の信仰は文字に対するもの(戒律)ではなく、復活のキリストへの信仰とかえられたのである。 サウロはその心も、行動も根底から変えられた。肉体の盲目は霊の開眼でいやされ、新しい力を受けた。
◎ 暗誦聖句 マタイ伝 五章六節
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