◆ パウロの生涯(六)
                  

        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年四月一日号 
        ▽リヴァイヴァルは個人から

 さてダマスコにアナニヤという一人の弟子あり、まぼろしのうちに主言い給う。「アナニヤよ。」答う。「主よ、我ここにあり。」主言い給う。「起きて直という街に行き、ユダの家にてサウロというタルソ人をたずねよ。みよ、彼は祈りおるなり。又アナニヤという人の入りきたりて再び見ゆることを得しめんために、手を己がうえに按くを見たり。」
     (使徒行伝九章一〇〜一二節)

 今は幻の時代ではないから注意をしなければならないが、使徒の時代までは神様が特定の人にみ告げをなさる一つの方法であった。聖書が人間の手に入るようになってからは、明確な御言葉を通して神様の御心を知らせておられる(ヘブル書一章一、二節)。

 アナニヤは日頃信仰のあつい人であった。旧約時代の
預言者イザヤのように、神様の語りかけに対してすぐお答え出来る心の状態であった(イザヤ書六章八節)。

 私たちの心が神様にむかって研ぎ澄まされていないと異象にも気づかないで失敗をすることになる(民数紀略二二章二一〜三五節)。たとえ幻や異象を見ることがなくても、日常茶飯事の中に神様の教えや警告を見いだせるようになりたいものである。

 アダムとエバが神様にさからう罪を犯した時、二人は神様をおそれて身をかくした。アダムは「汝はいずこにおるや。」という神様のお声にすぐ応じることが出来なかったことを思い出す(創世記三章九節)。今あなたはどこにいますか?アダムがどこに身をかくしても神様は当然ご存知であった(コリント前書八章三節、ガラテヤ四章九節)。

 子供の頃、父親に「立つより返事!」としかられたものだった。何か用をしている時に親が声をかける。「ハイッ。」と返事をすぐかえさないとおこられたのである。神様と私たちの関係にあてはめるのはおそれおおいが、人間の父親以上に神様は私たちの即答をのぞんでいらっしゃるのではないかと思う。

 もちろん返事だけではなく起きて(=行動をおこす)ご命令に従うのである。「サウロをたずねよ。」とは何と恐ろしいご命令であろうとアナニヤは考えた。クリスチャンを迫害している人物なのだから。「見よ、彼は祈りおるなり。」。

 私たちは特別集会のための戸別訪問、路傍案内、電話そのほかいろいろな方法で人々をおさそいしている。福音を語るときに恐れがともなうことがある。「またことわられるかもしれない。」とか「あの人は別の宗教に熱心だから……。」と。「みよ、彼は祈りおるなり。」。神様の救いを求めて祈っている人をたずね出そうではないか。
                                        (続 く)
 

◎ 暗誦聖句 ヨハネ黙示録 二二章二〇節  
これらの事を証する者いい給う『然り、われ速かに 到らん』アァメン、主イエスよ、来りたまえ。=@                                                                   
 
 


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