◆ パウロの生涯(七)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年四月八日号 
        ▽リヴァイヴァルは自分から

 見よ、彼は祈りおるなり。
 神様ご自身がサウロの祈る姿をごらんになるとは何とさいわいなことであろうか。

 クリスチャンの信仰生活は祈りによって成長する。
祈りは食事と同じで、親がどれほど幼児にハシのもち方を教え、あるいはごはんの食べ方を教えても、子供自身が食べなければ大きくならない。

 インスタント食品が出まわり、かぞえきれないほどのジュースや飲みものが私たちのまわりにある。手軽だからといって毎日そういうものだけを飲食したら身体はどうなるだろうか。

 文盲は日本にいないといわれるほど識字率の高い日本であるが、日本人の問題の一つは、恥ずかしがってたずねようとしないことだ。

 わからないことは、そのままにしておかないでどんどん聞けばよい。知らないままでいるよりも正しい答えを見いだすほうがよいとわかっていても、恥ずかしさが先に立つ。クリスチャン生活の力の源泉も、よろこびも、平安も、祈るところにあると聞かされても実際生活に運用されずにいるようだ。教会の貸出図書にも何冊か祈りの指針があるから利用しよう。ライス博士の『祈り』を手はじめに、少くなくとも三冊は読んでみよう。

祈りは真理と同様にリヴァイヴァルをもたらす要因の主要な要素である。

 ある人たちは回心者を得ようと熱心に真理を使うが、祈りには殆んど力を注がない。けんめいに説教をしたり、トラクトをくばり証をしても良い結果がないという。その理由は効果的な祈りを忘れているためである。

 「真理」だけで神様の聖霊の働きなくしては何の効果も生みださない。聖霊のお働きは熱心な祈りに対する答えであるということを見おとしているのだ。

 真理を語るのに熱心である人が熱心に祈る人であるとはかぎらない。誰かが熱心に祈っていなければ、真理を耳にしても罪人は心をかたく閉ざしてしまう。真理の説き明かしと同時に熱心な祈りがなければならない。

 チャールズ・フィニーの『リヴァイヴァル講義』の一部。      
 リヴァイヴァルとは、周囲の人や教会を責めることではない。ほかの信者をさばくことでもない。祈ることによってまず自分自身が神様のみ前にくだかれ、新しくされることなのである。リヴァイヴァルには常に 悔い改めがともなう。私たちは正しい祈りを修得しているだろうか。 

 私たちは神様に「祈り」を見られているだろうか。
     (続 く) 
 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝五章六節  
幸福なるかな、義に飢え渇く者。その人は飽く事を得
 ん。
 


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