◆ パウロの生涯(八)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年四月二二日号 
        ▽御言葉にしたしむ
 

 サウロは数日の間ダマスコの弟子たちと共におり、 直ちに諸会堂にて、イエスの神の子なることを宣べた り。聞く者みな驚きて言う、「こはエルサレムにて此 の名をよぶ者を害いし人ならずや、又ここに来りし も之を縛りて祭司長らのもとにひきゆかんがためなら ずや。」。=@  
        使徒行伝九章一九〜二一節

 人は何を正しいこととして信じ、受け入れるかによって価値判断がかわる。善悪、喜怒哀楽の情も変わってしまう。かつて中国にあった文化大革命では多くの人が殺された。殺す人たちは思考する基準をかえられた。先脳されたのである。一般の人が持つ憐れみも、悲しみも、「英雄」という言葉におきかえられてしまったのである。

 サウロが主イエス・キリストにお会いするまではそうだった。クリスチャンを殺すことに生きがいをおぼえたのであろう。そうすることが「神」に対する忠誠と思ったのである。神の愛はそのサウロを全く変えた。主イエス・キリストは彼の心を、精神を、言動を根底から変えられたのである。

 クリスチャンの信仰の喜びは罪の赦しだけではない。生きる目的を与えられ、新しい生命を持つ者として造りかえられる日々に感謝がある(コリント後書四章一六節)。

 使徒行伝九章一一節から一九節までの間に私たちはサウロの生命に驚くような変化が起きたことをみる。サウロの祈りは新しい行動の基準であった。祈りは脱落した人を引き上げる力である。まず必要なことは神との平和であった。

かく我ら信仰によりて義とせられたれば、我らの主イ エス・キリストにより、神に対して平和を得たり=@                  ロマ書五章一節

 サウロが強い光を受けて目が見えなくなった時、当然日常生活には支障をきたした。それまで他人の世話になる必要のなかった人が突然何から何まで周りの人にたよらなければならなくなるのは大変つらいことだ。一人でじっと座り考えこむ時間が多かったであろう。

 数多くの賛美歌を書いたファニー・クロスビーは、
「眼が見える状態でもう一度生れたいと思いませんか。」と言われたことがある。

その時彼女は答えた、
「いいえ、私はこのままで幸福です。私が天国に言って 最初に眼にするのが、私の救い主イエス様のお顔です から。」             (つづく)
 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝五章八節  
幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。
 


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