◆ パウロの生涯(九)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年四月二九日号 
        ▽聖書全体の骨格を把握しよう

 サウロにとって三日間の盲目は決して絶望ではなかった。むしろ彼の半生の学び、修業、信仰生活、言動、すべての反省と総括であった。のちに彼はこう書いている。

我は八日目に割礼を受けたる者にして、イスラエルの 血統、ベニヤミンの族、ヘブル人より出でたるヘブ ル人なり。

律法につきてはパリサイ人、熱心につきて は教会を迫害したる者、律法によれる義につきては責 むべき所なかりし者なり。

されどさきに我が益たりし 事はキリストのために損と思うに至れり。

しかり、我 はわが主キリスト・イエスを知ることの優れたるため に、凡ての物を損なりと思い、彼のために既に凡ての 物を損せしが、これを塵芥のごとく思う。
        ピリピ書三章五〜八節

 サウロの生き方は根底から変えられたのである。そし
て、彼のいまわしい過去はキリストの血によってぬぐい去られたのである。

 祈りは、神とのまじわりを約束するものであった。

 私たちは弱い存在だ。祈りが必要とわかっていても祈れなくなることがある。ほかの人のために祈らなければならないと思っても、長続きしなかったり失念してしまう。

幸福ある日には楽め、禍患ある日には考えよ。
          伝道の書七章一四節

 盲目ということはあなたの経験しないことであろうか、霊魂の暗闇はありうるのだ。

直ちに彼の目より鱗のごときもの落ちて見ることを 得、すなわち起きてバプテスマを受け、かつ食事して 力づきたり。……直ちに諸会堂にて、イエスの神の子 なることを宣べたり。
  使徒行伝九章一八〜二〇節

 使徒パウロの半生を学ぶ時、私たちは一日一日がどれほど重要であるかを知らされる。

「先生のお話を聞いて目からウロコがおちたみたい。」
という表現を時々耳にする。もともと目にウロコなどはないのだが、言おうとする意味をあらわして妙である。

性来のままなる人は神の御霊のことを受けず、彼に は愚なる者と見ゆればなり。また之を悟ること能わ ず、御霊のことは霊によりてわきまうべきものなるが 故なり。=@       コリント前書二章一四節
 
 いくら福音を聞いても神様に心を向けない人は、前進がない。

汝らもし一心をもて我を求めなば我に尋ね遇わん。
(旧約エレミヤ記二九章一三節)という聖句は、「神の存在を証明するなら信じてやろう。」という態度をとる人たちに対する神のおこたえである。   (つづく)
 
 

◎ 暗誦聖句   マタイ伝五章九節  
幸福なるかな、平和ならしむる者。
   その人は神の子と となえられん。
 
 


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