◆ パウロの生涯(10)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年五月六日号 
        ▽神の御言葉に立つ

 
 人間の身体に元気な時とつかれがどっと出る時があるように、精神の働きにも青春と老年とがあるようだ。

 いぜんNHKテレビで人体の驚異を連続放映する特集があった。進化論を基調とする解説そのものに賛成するわけではないが、細胞の働きを見、考えるとき、神様の知恵と配慮に驚嘆するばかりであった。人間の身体の細胞は毎日新しくされている。老人となるにしたがって確実におとろえる器官もあるのだ。

汝の若き日に汝の創造主(つくりぬし)を記(おぼ)えよ。すなわち悪(あし)き日の来(きた)り、年のよりて我は早(はや)何も楽しむところなしと言う にいたらざる先(さき)。=@     伝道の書一二章一節

 サウロの古い人間性は十字架につけられた。キリストとともに十字架につけられ死んだのである(ロマ書六章六節)。そして神の恵みが彼をひき上げたのだ。

 サウロの旧約聖書の知識と理解は、キリストの十字架のあがないという壮大な神の救いのご計画に照らされたとき、パズルの小片がそれぞれより合って絵になるように、はっきりと全人類の救いの方法として新しい意味を浮き立てたのである。キリストに降伏したのち、大胆さとねばり強い活力とが加えられた。すべてが相働らいて益となっていったのだ。

サウロは数日の間ダマスコの弟子たちとともにおり、 直(ただ)ちに諸会堂にて、イエスの神の子なることを宣べた り。聞く者みな驚きて言う『こはエルサレムにて此(こ)の 名をよぶ者を害(そこな)いし人ならずや……』。
             使徒行伝九章一九〜二一節

 霊的な進歩の方法がここにみられる。霊的といってもわかりにくいであろうが、「神様のことに関して」とか「正しい信仰のあり方」とおきかえられよう。

 後日、サウロが書いたローマ人への手紙を読んでみよう、
さらば何と言うか『み言葉は、なんじに近し、なんじ の口にあり、なんじの心にあり』と。これ我らが宣(の)ぶ る信仰の言葉なり。即(すなわ)ち、なんじ口にてイエスを主(しゅ) と言いあらわし、心にて神の之(これ)を死人の中(うち)より甦(よみがえ)ら せ給いしことを信ぜば、救わるべし。それ人は心に信 じて義とせられ、口に言いあらわして救わるるなり=@             ロマ書一〇章八ー一〇節

 日本のある地域には「かくれキリシタン」の名残りが見られる。迫害のきびしかった当時を思いおこすと単純に批判を出来ないが、再考をうながす点があると思う。「沈黙は金なり」ということわざは信仰においては当てはまらない。私たちの信仰は人に語ることによって強くされる。なまける人は疑いをおこすことがある。

よく働く人はよろこびにみちる。          (続)
 
◎ 暗誦聖句 ルカ伝一八章一四節後半  
おおよそ己(おのれ)を高うする者は卑(ひく)うせられ、己を卑(ひく)うす る者は高うせらるるなり。=@     


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