◆ パウロの生涯(11)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年五月一三日号 
        ▽聖書に親しもう

 サウロの力づよいあかしを聞いた人々、とくにクリスチャンたちは大変はげまされた。あかしは外向的な人に限らない。内向的な人も心の中にある喜びを人に伝えることが出来る。日頃言葉数のすくない人が、救われた体験談をやむにやまれぬ思いで話す時に力がある。

 サウロの回心にわき立ったクリスチャンたちに嵐がおそった。それはサウロの劇的な回心に比例するような強く、しつこいものであった。だがサウロの献身は決してそれによって弱められなかった。彼を駆り立てたのは、また機会をうかがえ、そは時悪しければなり。=iエペソ書五章一六節)という思いであった。聖書の書かれた原語の意味は「今の時を最大限に活用しなさい【あらゆる機会をのがさず買い占めなさい】。」というのだ。時間をあがなうとも解釈されている。サウロは失った時間の大きさを考えたのであろう。無駄にすごした日々は取り返せない。私たちが自分のために費やした時間をふりかえってみよう。

エホバよ願わくはわが終わりとわが日の数のいくばく なるとを知らしめたまえ。わが無常を知らしめ給え=@   詩篇三九篇四節

 使徒パウロの書簡にみなぎる緊張感はどこからくるのであろうか。

 ユダヤ主義からキリストに信仰がかわったためという人もいるし、迫害の追手のためと考える人もある。だが私たちはその緊張感をパウロの心の内側に見ることが出来ると思う。

罪の増すところには恵みもいや増せり。=iロマ五・二〇)という言葉は彼自身の告白である。日ごとに神のあわれみを感じとっていたサウロである。私たちの感激は二日ともたないであろうが、サウロの感銘は決して色あせることがなかった。むしろ、日がたつにつれて彼の心はキリストの愛によってみたされたのである。

キリストの愛われらに迫れり。我ら思うに、一人すべ ての人にかわりて死にたれば、すべての人すでに死に

 たるなり。その凡ての人にかわりて死にたまいしは、 生ける人のもはや己のために生きず、己にかわり死に て甦えりたまいし者のために生きんためなり。
     コリント後書五・十四、十五

 自分が一生けんめい神様におつかえしていると思ったのに実は反対のことをしていたと悟ったサウロは、取りかえしのつかない時間と精力のロス(損失)をおぼえたのである。「時をあがなおう。時間を買いもどすことが出来るならば買いもどしたいものだ!」というサウロの思いは私たちの思いでもある。ではどのようにして時を買いもどせるのであろうか。        (続く)
 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝五章一三節前半
汝らは地の塩なり、塩もし効力を失わば、何をもてか
 これに塩すべき。=@                                                                 
 


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