◆ パウロの生涯(14)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇一年六月三日号 ▽聖書を学ぼう 我らは真理にさからいて能力(ちから)なく、真理のためには能力あり。=@ コリント後書一三章八節
使徒パウロに言わせるなら今の時代は神に逆らい自分の頭の上に火をつむ人にたとえるであろう。真理に逆らい、自らを全能と考える愚かをおこなっている民族の明日はない。 真理に逆らうとは、人類の救い主キリストにさからうことである。神のみこころに従い、信仰と実践の基準を聖書に見出す人は幸いである。サウロは真理の先駆者と自負して行動し、失敗した。 人の自(みずか)ら見て正しとする道にして、その終(おわり)は遂(つい)に死にいたる道となるものあり。=@ 箴言一四章一二節 人の心の高ぶりは滅亡(ほろび)に先だち、謙遜(へりくだり)は、とうとまるゝことに先だつ。=@ 箴言一八章一二節 私たちは人類の知恵のすばらしい進歩をよろこび感謝するものだが、神からあたえられた真理に反抗する姿を見るにつけ心を痛めている。主の再臨(さいりん)はちかづいている。 汝らは彼((キリスト))に聞き、彼に在(あ)りてイエスにある真理(まこと)に従いて教えられしならん。即ち汝ら誘惑(まどわし)の欲のために亡ぶべき前(さき)の動作(ふるまい)に属(つ)ける古(ふる)き人を脱(ぬ)ぎすて、心の霊を新にし、真理より出ずる義と聖とにて、神に象(かたど)り造られたる新しき人を着るべきことなり。=@ エペソ書四章二一〜二四節 ここでパウロが強調したのは新しい人である。原語の意味に近い翻訳では、古いセルフと新しいセルフという対比をさせている。ソロモン博士の「車輪と線」のトラクトによく引用なさる言葉である。フロイトという精神分析の大家が自我((エゴ))の研究でとり上げたテーマでもある。 イエス・キリストを信じるというのは、単に頭の中でキリストの教えを受け入れるというのではない。自分((セルフ))が入れかわってしまうのだ。ガラスのコップに汚い水が入っているとして、そのよごれた水を捨てなければ、新しい水を上から注ぎたしても完全に入れかわることがむずかしい。 パウロは非常に鋭く自分という人間を分析し、自己の内面を掘り下げて考えた人である。律法を守りえない人間の弱さを知っていた。自動車が古くなると車体のあちらこちらにサビが出る。とくに車内の足の下のカーペットをはがしてみるとよくわかる。自動車やさんは、足まわりという表現をするが、その足まわりには点々とサビが浮く。ペンキを塗ってサビがみえないようにしても、すぐペンキを押し上げるようにしてサビが浮いてくる。人間の自我も同様である。外側を美しく塗っても、内部から出てくる罪を処理しなければ根本的治療にならないのである。 (続) ◎ 暗誦聖句 マタイ伝五章二〇節 我なんぢらに告(つ)ぐ、汝(なんじ)らの義、学者・パリサイ人に勝(まさ)らずば、天国に入(い)ること能(あた)わず。
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