◆ パウロの生涯(15)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年六月一〇日号 
        ▽聖書にしたしもう
 
 救いに、悔い改めとキリストに対する信仰という両面があるように、信仰生活の歩みにも二要素がある。古い人をぬぎすて、新しい人を着ることと、新しい歩みの目あてを持つことが大切である。
 
さらば食らうにも飲むにも何事をなすにも、すべて神の栄光をあらわすようにせよ
             コリント前書一〇章三一節
 
 人生の目的も、信仰生活の一歩一歩も、すべて神の栄光をあらわすようにせよというのがパウロの人生であった。「時をあがなう」思いにかられたパウロにして、はじめて描くことの出来た人の歩みである。
 
 イエス・キリストのお姿に似るようになるという目標は余りにも高遠な理想に思えるが、「千里の道も一里」のたとえである。自分の家から始めよう。


 コリント前書一〇章三一節を先に記した。この聖句を知らないクリスチャンはいないほどによく知られたみ言葉だが、実際の適応と解釈となるとそう簡単ではない。いやむしろ、わかりやすい言葉であるからなおさら実践がむずかしいとも言えよう。
 

 コリント前書八章一節からの論説のまとめがこの聖句である。私たちのすべての言動が、神のご性質をあらわすのにふさわしいかどうか試すことが必要である。信者の言動を導く原則はこのコリント前書の中にまだある。


一.それは益となるだろうか。      
     六章一二節

二.それは人を「とりこ」にする力をもつか。
   六章一二節

 
三.それは他の兄弟の霊的な成長をさまたげることに
 なるかどうか。   八章一三節


四.それは他の兄姉の徳を立てることになるかどうか。
      一〇章二三節

 
 ある注解者は次のような説明をする、


「人の行為はそれ自体、宗教的とか世俗的とかいうことはない。一つ一つの行いの質は、その行為の動機と精神によるのである。クリスチャンの精神でなされるあたりまえの仕事もあれば、自己中心の動機でされる偉大(?)な仕事もある。たとえば、ナイチンゲイルはどうだろうか。」

 
「私たちの責任は人々を新生にみちびくことであり、人々が救いの過程において成長するように導くことである。それは義認→聖化→栄化への道である。」
 
                ( 続 く )
 
◎・・天地の過ぎ往(ゆ)かぬうちに、律法(おきて)の一点、一画も廃(すた)ることなく、ことごとく全(まっと)うせらるべし(マタイ伝五章一八節)=@ 

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