◆ パウロの生涯(16)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇一年六月一七日号 ▽世界地図に親しもう 使徒行伝九章にもどろう。
サウロますます能力(ちから)くわわり、イエスのキリストなることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人を言い伏せたり。日を経(ふ)ること久しくして後、ユダヤ人かれを殺さんと相(あい)謀(はか)りたれど、その計(はかり)ごとサウロに知らる。=@ 使徒行伝九章二二節〜二四節 ユダヤ人はなぜサウロを殺そうと追いまわしたのか。 律法と恵みの比較は福音を浮き立たせるが、それだけユダヤ人の怒りをさそった。 キリストの恵みと真理こそサウロがパウロとされた力であった。神の救いは回心の時だけでなく、そのあとの日々の生活をもすっかり変える力がある。 人間にとって欲望を捨て去ることは容易ではない。使徒行伝を読むとき、人間の普遍的な願望の強い姿をヘロデ王、アグリッパ王、そして総督ペリクスの中に見る。持ちもの、地位、権力などに対する人間の欲は際限がない。使徒パウロは彼自身はそうした人間の欲望を持たなかったとは語っていない。 われ窮乏(ともしき)によりて之を言うにあらず。我はいかなる様におるとも、足(た)ることを学びたればなり。=@ ピリピ書四章一一節 「たることを学んだ」とは欲望に勝つ秘訣を身につけたということである。「クリスチャンになるとこの世の中のおもしろいこと、楽しいことを全部すてなくてはいけないから」と言って遠ざかる人がいる。 かつては大酒飲みであった人や、かけごとの好きだった人、あるいは道楽に身をくずした人などがキリストの十字架をあおぎ見て救われたあと、それまでの快楽を自分から捨てる例を多く見ることが出来る。強制されてするのではなく、全くそれを求めなくなるのである。時には禁煙を志す人のようになかなか離れることが出来ないということもあろうが、神様に祈り求めてゆくうちに、勝利をかちえるのだ。 そしてまた、人間の強敵である心配に対しても勝利を持つことが可能なことをパウロは語っているのだ。 我を強くしたもう者によりて=@ ( 続 く ) |