◆ パウロの生涯(21)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇一年七月二二日号 ▽まず神の国と神の義と を求めて バルナバは聖霊と信仰とにて満ちたる善(よ)き人なればなり。ここに多くの人々、主に加わりたり。かくてバルナバはサウロをたずねんとてタルソにゆき、彼にあいてアンテオケに伴(ともな)いきたり、二人ともに一年の間かしこの教会の集会(あつまり)に出(い)でて多くの人を教う。弟子たちのクリスチャンととなえらるることはアンテオケより始まれり。
使徒行伝一一章二四〜二六節 信仰なくしては神に悦(よろこ)ばるることあたわず、そは神に来(きた)る者は、神の在(いま)すことと神の己を求むる者に報(むく)い給(たも)うこととを、必ず信ずべければなり。 ヘブル書一一章六節 信仰がつよい人というと何となく男性的な女性、あるいは近づきがたい固さと冷たさを連想させるが、善き人という評があることはイエス様がお教えになった柔和さがあったことであろう。他人の苦しみを理解しようとする人であり、弱い人を助け、あるいは弟子たちの和をはかった人ということであろう。 アンテオケで弟子たちはクリスチャンとよばれるようになった。二千年近く続いてきた栄光の名称「クリスチャン」をなぜ近頃のクリスチャンは「キリスト者」と言いかえているのだろうか。バプテスト教会といわずにキリスト教会という名前にする教会も気になる。アイデンティティ不在である。 この時代からクリスチャンの信仰はいくつかの特徴でよく知られるようになったのだろう。もちろん、使徒行伝のはじめの部分にすでにあらわれていたことであるが、キリストを信じて救われた人は必ずその生活におどろくほど大きな変化があらわれてくるのだ。 (続く) ◎ 暗誦聖句 マタイ伝五章一八節
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