パウロの生涯(二二)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年八月一二日号 
        ▽キリストの平安あれ
 
 
かくてバルナバはサウロをたずねんとてタルソに行き彼に会いてアンテオケにともないきたり、二人ともに一年の間かしこの教会の集会に出でて多くの人を教う。弟子たちのクリスチャンととなえらるる事はアンテオケより始まれり。=@ 使徒行伝一一章二五、二六節
 
 あだ名というのは、ある人の特徴をとらえておかしいことがある。学生時代に生徒が先生につけるあだ名は、憎めないものがある。
 
 イエス・キリストを信じる人たちが、キリストの性質にあずかるという意味のクリスチャンとよばれたことは大変意義がある。信仰のない人たちはキリストの弟子たち、信者たちを特別な呼び名でよんだのである。日本は神道の国だとか、仏教徒の国とかいわれる。ビルマやタイのようにはっきりわかるばあいならいざ知らず、日本人を仏教徒とは言わない。ユダヤ人社会においての新しい群れ、そしてユダヤ人以外の社会でもひときわ目立つ存在となった信仰者の群れは独特な生活と雰囲気をもっていた。人は何を信じて生きるかによってその人の雰囲気とか香りに個性がにじみ出るようだ。
 
 アンテオケでクリスチャンになった人たちは、柔和、善、信仰に富むバルナバのように変えられたことであろう。罪を悔い改めて明確な救いを受けた人たちである。その顔には喜びが輝やき、まずしさの中にも平安がただよう生活をいとなんだ。彼らはいつも希望を語り、新しい人間関係をつくっていった。キリストを見上げて、力づよい歩みを進めていた。周囲の人々は、自分たちにないものを持つ信者の群、クリスチャンと呼んだのだ。
 
 ユダヤ人以外の集りにも聖霊は働らかれた。
真理のみ霊(ヨハネ一四章一六、一七節)、助け主の御臨在があきらかであった。
 
されど今は凡てこれらのこと及び怒り、いきどおり、
悪意をすて、そしりと恥ずべき言葉とを汝らの口よりすてよ。互いにいつわりを言うな、汝らはすでに古き人とその行いとを脱ぎて、新しき人を着たればなり=@           コロサイ書三章八〜一〇節
 
 人があつまるところには人間的なもめごとや争いが生じやすい。
 
悪しき言葉を一切汝らの口より出すな、・・・神の聖霊をうれいしむな、汝らは贖いの日のために聖霊にて印せられたるなり。=@ エペソ書四章二九、三〇節
 
 神のみ言葉を読み、神のみ心を学びとり、神に従おうとする生き方は人を全く変える力を持つ。
 
 聖霊のおはたらきを拝することが出来るだろうか。
  
 

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