パウロの生涯(二三)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年八月一九日号 
        ▽全世界はキリストの畑

  使徒パウロが宣教師として神様に大切な使命をさずかり、成功した秘訣を学ぶことは益となると思う。

今の時代を何にたとえたらよいだろう。
 
 強い電磁波を浴びたカセット・テープといえようか。そのこころは、録音された正常な音楽が狂ったり、メッセージが消されたりする。アメリカからおくってもらった音楽テープがところどころ音が弱くなったり消えたりしたことがある。それと同じようなことが人間の世界におこっているのではあるまいか。せっかくの音楽もテンポが狂ったり、脱落部分があるとかたなしである。それと知らずに狂ったものが正常と思って聞いたものだった。
 
 神様が人間にお与えになっている基準は聖書に明らかであるが、人はその基準に不純物をまぜてきた。はじめは乙女のように恥じらいながら。やがて狂暴な独裁者のように自らの手で善悪の物さしを作りかえつつあるのだ。
 
 とりわけ目立つのは、「成功」という言葉のとらえ方である。物質本位、数字本位、「大きいことはいいことだ!」にあらわされる価値観は、人間性をゆがめてしまった。真正直、真人間などという表現も今は昔。生(き)まじめに生きようと心がける人は押しのけられ、しいたげられていくのだ。
 
 神様のみ言葉は古くさいと考える人は多い。
 
 石油が燃えないで、ただの水が燃え、雨が空から降らないで大地から吹き上げることがあるだろうか。どんなに人間が神様にさからって勝手気ままなことを言ったとしても神の基準、神の秩序は変わらない。
 
 世の中の動きはかつてないほどに急速である。マスコミはこぞって目あたらしいものを求めて、正当なものや純すいなものには目もくれない時代である。
 
我いま人によろこばれんとするか、或いは神に喜ばれ
んとするか、そもそもまた人をよろこばせんことを求むるか。もし我なお人をよろこばせおらば、キリストのしもべにあらじ。=@   ガラテヤ書一章一〇節
 
汝ら世をも世にある物をも愛すな。人もし世を愛せば御父を愛する愛そのうちになし。おゝよそ世にあるも
の、即ち肉の欲・眼(まなこ)の欲・もちものの誇りなどは御父より出づるにあらず、世より出づるなり。
        ヨハネ第一の手紙二章一五、一六節
 
 使徒パウロはどこぞの国民のように、本音と建前(たてまえ)とを使いわけて人間の歓心を買おうなどという思いをもたなかった。神のみ心こそ彼にとって成功だったのだ。
                 ( 続 く )
 

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