パウロの生涯(二五)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年九月九日号 
        ▽日曜学校へさそおう。

 

 かつて伝道者D・L・ムーディは、神様に用いられることについて語り自分がそのような人になりたいと祈ったが、自分自身を神様にあけわたした彼は世界大の伝道者として救霊の足跡をのこした。
 
 コップの中ににごった水があると仮定しよう。その上から同量のきれいな水を入れてみてもコップの中はきれいな水とはならない。はじめによごれた水を捨ててからきれいな水を入れればよいのだ。
 
 私達の心は欲望と罪で汚れきっている。そんな心に神様のお言葉をたくわえようとしても仲々生活は変らない。イエス・キリストの十字架の死を私の罪の身代わりであったと信じ受け入れる時、古い人はキリストと共に十字架につけられて死んだことを知る(ロマ書六章六節)。
 
 信仰生活の基本は、自分の思いどうりに周囲の人を動かしたり、神様の力をアラジンのまほうのランプのように自分の思いどうりに利用することではない。逆に私たち自身が自分をむなしくすることなのである。
 
 使徒パウロは宗教家・学者としての自分を決して誇らなかった。イエス・キリストを信じ、キリストに従うことは彼の社会的地位にハクをつけることでもなかった。聖霊はパウロを通して働らかれた。新約聖書において聖霊はいくつかの呼び名であらわされている。慰め主、キリストの霊、きよき御霊(みたま)、真理のみたま、生命のみたま、恵みのみたま、御霊、など。
 
父の許(もと)よりわが遣(つかわ)さんとする助け主、即(すなわ)ち父より出(い)ずる真理の御霊(みたま)の来(きた)らん時、我につきて証(あかし)せん。=@             ヨハネ伝一五章二六節
 
 クリスチャンの中には聖霊のみたしについて誤解する人もいるので、聖書を注意深く学ぶ必要がある。
 
酒に酔うな、放蕩(ほうとう)はその中(うち)にあり、むしろ御霊(みたま)にて満(みた)され、詩と賛美と霊の歌とをもて語り合い、…。
  エペソ書五章一八、一九節
 
 C・ライリー博士はスタディ・バイブルの註で次のように書いている、
 
「みたまに満たされるということは、みたまによってコントロールされることである。」
 
*コントロールとは、支配、統制、監督、制御等の意。みたまにみたされる条件は、
 
ア.神様に献身(ロマ一二章一ー二節、八章一四節)

イ.聖霊を悲しませない生活(エペソ書四章三〇節)

 
ウ.聖霊によりたのむ人生(ガラテヤ書五章一六節)
 
その結果として、
 
ア.キリストに似た性格(ガラテヤ五章二二、二三)
 
イ.奉仕(ヨハネ伝七章三七節)
 
ウ.服従(エペソ書五章)  

   ( 続 く )

 
 
◎ 暗誦聖句  エペソ書二章九節
おこないに由(よ)るにあらず、これ誇る者のなからんためなり。
 
 

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