パウロの生涯(二六)  
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年九月一六日号 
        ▽「絶えず 祈れ」
 
 
群衆、パウロのなししことを見て声をあげ、ルカオニヤの国語(くにことば)にて「神たち人の形をかりて我らに降(くだ)り給えり」と言い、

バルナバをゼウスととなえ、パウロを宗(むね)と語る人なるゆえにヘルメスととなう。しかして町の外なるゼウスの宮の祭司、数匹の牛と花飾(はなかざり)とを門の前に携(たずさ)えきたりて群衆とともに犠牲(いけにえ)を献(ささ)げんとせり。

 
 使徒たち、すなわちバルナバとパウロと之(これ)を聞きて己(おの)が衣をさき群衆の中に馳(は)せ入(い)り、呼(よば)わりて言う

「人人よ、なんぞかかることをなすか、我らも汝らと同じ情(じょう)を有(も)てる人なり、汝らに福音を宣(の)べてかかる虚(むな)しき者より離れ、天と地と海とその中にあるあらゆる物とを造り給いし活(い)ける神に帰(かえ)らしめんとするなり。

…かく言いて辛(かろ)うじて群衆の己(おのれ)らに犠牲(いけにえ)を献(ささ)げんとするを止(とど)めたり。

 
     使徒行伝一四章一一〜一八節
 

 少し長い聖書の引用をさせていただいたが、前後関係を知るために必要だと思われる。

 
 パウロとバルナバがこれほど群衆におどろかれたのは何故だろうか。それは生まれつき歩くことの出来なかった男の人を歩けるようにしたからだった。現代のマスコミなら早速テレビ中継をやるところだろう。超能力という言葉につられて人は多額の謝礼を出して助けを求める。ゼウスの宮の祭司は大いそぎで供えものを用意したが、パウロたちにとめられた。
 
 パウロはいつも神様に人々の心を向けさせようと努(つと)めた。決して自分のほまれを求めなかった。パウロもバルナバも、聖霊の御力をよく認識していた。
 
 なぜこの二人は神様に用いられたのであろうか。この二人はこの世の知恵によりたのむことなく、主イエスに完全に自(みずか)らをあけわたしたのである。私たちは使徒たちが説教するなら、聞く人全部が信じて救われると思いがちだが、結果はそうではなかった。ある人は信じ、ある人たちは反対者となったのだ。福音は必ず反応を生む。人間が信仰に反対するのは説教者だけの問題ではない。
私たちが福音の証人となるとき、どんな反応がおこるだろうか。
 
ア.反対   
イ.祝福
ウ.不思議  
エ.内外からの敵
オ.実を結ぶ教会
 
神様は今も神様に全てをあけわたす人を求めておられるのだ。   
     ( 続 く )
 
 
◎ 暗誦聖句  ヨハネ黙示録五章一三節「 」内
「願わくは御座(みくら)に座し給うものと小羊とに、讃美(さんび)と尊崇(とうとき)と栄光(えいこう)と権力(ちから)と、世々限りなくあらんことを」

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