パウロの生涯(二八)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年一〇月七日号 
        ▽身近な人に証しを。
 
 
神の言(ことば)は生命(いのち)あり、能力(ちから)あり、両刃(もろは)の剣(つるぎ)よりも利く(と) して、精神と霊魂(たましい)、節々(ふしぶし)と骨髄(こつずい)を透(とお)してこれを割(わか)ち、 
 心の念(おもい)と志望(こころざし)とを験(ため)すなり。
   ヘブル書四章一二節
 
 人は皆、神様のみ言葉によってためされる。キリストを心に迎え入れるか否かによって、救いかほろびかの道がきまる。それだけにパウロは福音宣教に自らの生命をかけたのである。
 
なんじ御言(みことば)を宣伝(のべつた)えよ、機(おり)を得(う)るも機(おり)を得(え)ざるも常に励(はげ)め。=iテモテ後書四章二節)と若い伝道者テモテに教えたパウロは神様のみわざが聖書のお言葉を通して人間になされることを確信していた。

 私たちが聖書を読む時に祈りをもってはじめるのは、聖霊が語ってくださるようにという願いからである。神様の真理が正しく私たちに伝えられ、理解されるようにと祈るのである。
 

 エペソの教会には霊的な問題があった。神様に対する信仰の欠如であった。お約束の言葉を信頼しつづけないで、知的・神学的栄養失調をおこしてしまったのだ。
 
 われ地に平和を投(とう)ぜんために来(きた)れりと思うな、平和 にあらず、反(かえ)って剣(つるぎ)を投ぜんために来れり。・・・ 我よりも父または母を愛する者は、我に相応(ふさわ)しからず。
 我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応(ふさわ)しからず。またおのが十字架をとりて我に従わぬ者は、我に 相応(ふさわ)しからず。
 生命(いのち)を得(う)る者は、これを失い、我がために生命を失う者は、これを得(う)べし。
   マタイ伝一〇章三四〜三九節
 
我らの勧(すすめ)は、迷いより出(い)でず、けがれより出(い)でず、たばかりを用いず、神に嘉(よみ)せられて福音を委(ゆだ)ねられたる者なれば、人を喜ばせんとせず、我らの心をみたもう神を喜ばせ奉(たてま)つらんとして語るなり。
  テサロニケ前書二章三〜四節
 
 神様におつかえしようとする者は、福音の役者(えきしゃ)としての心がまえと訓練が必要である。
 
 神様がイスラエルの父といわれたアブラハムをウルの地から召し出されたとき、アブラハムは自分の故郷をはなれて神様のお導きに従った。使徒パウロは宣教の働らきが肉の力によらないことを十分認識していたからコリント人への手紙二章にそのことを書き記した。
 
 使徒行伝一四章四節以下を見ると、福音は二種類の反応をおこす。信仰か不信仰かであり、反対者ははげしく怒りをあらわすことが多い。    
                 ( 続 く )
 
 
◎ 暗誦聖句 マタイ伝 六章一〇節
御国の来らんことを。御意の天のごとく地にも行われん事を。


 

 

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。