◆パウロの生涯(二九)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇一年一〇月一四日号 ▽絶えず祈れ テサロニケ前書二章三、四節 神様はモーセにお示しになった十戒の中でも、父と母をうやまうように教えておられる。ではマタイ伝一〇章三四〜三九節のイエス様のお言葉の真意は何だろう?
使徒パウロは神様に忠実におつかえしているつもりでクリスチャンを迫害した過去を持つ。それだけに、自分のあやまちに気がついた時、全生涯を神におささげして時をあがなおう≠ニしたのではなかったか。 パウロは律法の割礼(かつれい)について思い悩んだが、遂に真理の光を得たのだ(ロマ書二章二七〜二九節)。人が救われるのは行いによらず、イエス・キリストを信じる信仰によることを悟ったパウロは、天地の創造主であられる真の神は、ユダヤ人のみの神ではなくて、全人類をお救いくださるお方であるとの確信に導かれた(ロマ書三章二八、二九節)。 人の知恵は自己中心であり、自分の利益がすべてに優先してしまう。こうした生き方をパウロは否定した。 神様は人間に義務をあたえておられるが、一つ一つの義務は同時に相反するということはない。板ばさみはないのだ。 "Duties
never conflict"
ある人々ユダヤより下(くだ)りて兄弟たちに「汝らモーセの例にしたがいて割礼を受けずば救わるるを得ず」と 教う。ここに彼らとパウロ及びバルナバとの間に、大いなる紛争(あらそい)と議論と起りたれば、兄姉たちはパウロ、バルナバ及び数人をエルサレムに上(のぼ)らせ、この問題に つきて使徒・長老たちに問わしめんと定(さだ)む。(中略) 聖霊と我らとは左(さ)の肝要(かんよう)なるものの他に何をも汝らに 負わせぬを可(よ)しとするなり。即ち偶像に献(ささ)げたる物と 血と絞殺(しめころ)したる物と淫行とを避くべき事なり、汝らこ れを慎(つつし)まば善(よ)し。 使徒行伝一五章一節〜二九節 初期の教会には幾つもの解決すべき課題があった。特に旧約聖書しか持たない時代のクリスチャンにとって律法(りつほう)と恩寵(おんちょう)との関係は難しいことであった。ユダヤ人信者の中には、モーセ律法を守るべきであると主張する者がいて、ユダヤ人以外((異邦人))を差別扱いすることがあった。 パウロが説いたのは、割礼という宗教儀式にまさる真実な信仰であった。多くのユダヤ人は生後まもなく受けた割礼を選民の誇りとした。人間の善行や儀式を重んじてキリストの十字架による完全な贖罪によりたのむことをしなかった。そのために、異邦人の救いを認めようとはしなかったのである。だが、主イエスの十字架上の死は割礼にまさるもので割礼そのものを廃止する力をもっていた(ロマ書二章二七〜二九節)。 (つづく) ◎暗誦聖句 マタイ伝六章一一節 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日もあたえ給へ。
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