パウロの生涯(三〇)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年一〇月二一日号 
        ▽すべての事感謝せよ
 
  割礼を受けた者も受けていない者も神の前ではひとしく罪人(つみびと)として立たされる。我らは思う、人の義とせらるるは、律法(おきて)の行為(おこない)によらず、信仰に由()るなり。
    ロマ書三章二八節。 
 使徒パウロは更にふみこんで言った、
 
神は唯(ただ)ユダヤ人(びと)のみの神なるか、また異邦人(いほうじん)の神ならずや、然(しか)り、また異邦人の神なり。神は唯一にして割礼ある者を信仰によりて義とし、割礼なき者をも信仰によりて義とし給えばなり<鴻}書三章二九、三〇節
 
人間は自分勝手に救いの方法や手段を考え出すが、聖書は神の方法によらなければ救われないと強調している。  

           コリント前書一章一八〜二一節

 
イエス様が十字架におつきになった時、両側には強盗がはりつけにされた。一人はキリストを拒(こば)み罪の中に死んだ。もう一方の盗賊はキリストを心にお迎えして罪に対して死んだ。そしてキリストは私たちの為に死んで下さったのだ。
 
 ある信仰雑誌にこんな記事があった、
 
「イエス様が十字架につけられた時、その両側に盗賊がはりつけにされた。宗教画を見ると大抵(たいてい)、中央の十字架だけが大きく描かれている。しかしこれは間違いだ。私たちの救い主は私たちから殊更遠くに、大きな十字架につけられたわけではなく、私たちの手の届く所にはりつけられたのである。両側の罪人(ざいにん)が声をかわす事の出来る近さにである。」
 
 つみびとが苦痛の中に出す声が聞こえる近さにいてくださるキリストとは何と示唆にとんだ考えだろう。
使徒パウロが宣べ伝えたキリストは机の上のキリストではなかった。私たちの手の届く近さにいらっしゃる救い主なのである。
 
 スコットランドでの実話をご紹介しよう。
 
「ある寒い日に食べ物も殆(ほとん)どなくなった貧しい婦人が赤ちゃんをつれて隣りの村へ向かって家を出た。親戚の好意にすがるためである。途中、天候が急変、嵐になった。母親は赤ちゃんを岩かげにかくまった。翌日そこを通りかかった人に赤ちゃんは助けられたが、母親は冷たくなっていた。彼女は自分の着ていたものを赤ちゃんに着せて自分は犠牲になったのだ。

 それから時がたった。この母親の葬儀をとりおこなった牧師の息子が伝道者になって最初の説教の時、彼は父親から何度も聞かされていた母の愛(キリストの身がわり)を語った。数日後、一人の病人からの依頼で若い伝道者はその病床に立った。

「先生、先日のお話にあった赤ん坊はこの私です」と言って泣きながらキリストの愛にすがった。この日彼はキリストを救い主として受け入れたのである。

 
キリスト・イエス罪人を救わんために世に来たり給え りとは、信ずべく正(まさ)しく受くべき言葉なり、その罪 人の中(うち)にて我は首(かしら)なり。=@テモテ前書一章一五節                    (つづく) 
 
◎ 暗誦聖句 マタイ伝六章一二節
我らに負債 (おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したるごとく、我らの負債(おいめ)をもゆるし給え。
 
 

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