◆パウロの生涯(三二)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇一年一一月一一日号 
        ▽霊のまことの乳をしたえ

 
 

 使徒行伝一六章六節に私たちは驚くべき記事を見る。
 
 彼らアジアにて御言(みことば)を語ることを聖霊に禁ぜられたれば、・・・ビテニヤに行かんと試みたれど、イエスの御霊(みたま)、許し給わず…。=@  同一六章六、七節
 
 パウロは絶えず前進した。開拓精神にとみ、何ものにも屈服しない闘志をもって伝道をすすめた。ところが、神様はアジアで福音を語るのを禁じられたのである。なぜだったのだろう? 私たちは常に神様のみ心を求めていくべきだが、一体何が彼らの前進をとどめたのだろうか。神様は使徒たちの思いをはるかに越えたご計画をお持ちであったことが後に悟られるのである。信仰の服従は「とどまれ」にたいしても「はい」とおこたえする。
 
パウロ夜、まぼろしを見たるに、一人のマケドニ ヤ人(びと)あり、立ちて己(おのれ)を招き「マケドニヤにわたりて 我らを助けよ」と言う。パウロこの幻を見たれば、 我らは神のマケドニヤ人に福音を宣べ伝えしむるた めに我らを召したもうことと思いさだめて、ただち にマケドニヤに赴(おもむ)かんとせり。=@
     使徒行伝一六章九、一〇節
 
 伝道者がどこで働きを始めるか、という重要な決断はいつ、どのようにしてきめられるだろうか。この記事は示唆に富む、今から二千年近く前のことであるから幻について疑うことはない(旧約には警告がある。エレミヤ二三以下、他)が、現代においては幻を語る伝道者には近づかない方がよい。私たちは今の時代にはっきりと書かれた神様のお言葉である聖書をあたえられており、必要な導きと教えを受けることが出来るのである。とはいえ、残念なことにいつの時代にも聖書を自分勝手に、前後の文脈を無視してこじつける人がいることも昔とかわらない。
 
 神様はパウロたちに宣教の広がりをお示しになった。人間の実情を知ること、霊魂の叫びを聞くこと、人々に対する愛、そして神をこばむ人に対する神のきびしいさばき、不信仰な者に対してもキリストの招きが続けられていることなど、一六章から教えられる。
 
 エルサレムの教会が特定の小さな都市に目をうばわれて宣教をおこたった時、神様は非常手段をもって福音の伝播をおすすめになった。
 
 私たちは自己中心、党派心、冷淡さ、無関心、自分のことで超多忙、という信仰生活を送っていくなら必ず後悔することになる。            (続く)
 
◎暗誦聖句 マタイ伝六章二四節前半
人は二人の主(しゅ)に兼事(かねつか)うること能(あた)わず。

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