◆パウロの生涯(三五)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇一年一二月二日号 ▽神の恵みを忘るるなかれ 神は賢き者をはずかしめんとて世の愚かなる者をえらび、強き者をはずかしめんとて弱き者をえらび……かろんぜらるる者、すなわち無きがごとき者をえらびたまえり=iコリント前書一章二七、二八節)
使徒行伝十六章にみる獄守とパウロとの立場の逆転をみるとき、私たちは本当にかしこいのだろうか、恵まれているのだろうか、といぶかる。 神様は日本やアメリカのお金をおつかいにならなくても全世界に福音を伝播することがお出来になる。 使徒行伝十六章ではなお学ぶことが多いのだが、これまでの記述でふれた点があるので、特に救いとは何かを復習していただきたい。
十七章にすすむことにしよう。テサロニケではパウロの伝道に反対するユダヤ人の騒動があった。パウロとシラスは夜の間にベレヤに移動した。 ここ(ベレヤ)の人々はテサロニケにおる人よりも善良にして心よりみ言葉をうけ、この事正しく然るか然らぬか日々聖書をしらぶ。このゆえにその中の多くのもの信じたり、またギリシャの貴女、男子にして信じたる者も少からざりき。=i十七章十一、十二節) 「論語読みの論語知らず」という言葉がある。同じ聖書を読んでも、正しく受けとめることの出来る人と、とんでもない解釈をする人とがある。文章は文脈をはずれて読まれることがあり、且つ一人歩きをしてしまうこともある。「狭き門から入れ」というイエス様のお言葉などその例である。 カトリックの信者が聖書を自分で読まない、読まされないというのも、そういう点から考えるならば一理あるであろう。読みちがい、意味のとりちがいということは多く読むことからおこるというよりも、少ししか読まないことからおこることではないだろうか。 ムーディという伝道者は大学教育を受けなかったが、毎日聖書を読むことにおいては同世代の人にひけをとらなかった。彼はよくメモをとった。そして興味ある新聞記事も項目別に封筒に入れて聖書の理解を助ける話の一助にしたという。彼の書いた聖書の宝庫という本はとても高等教育を受けなかった人のものとは思えないりっぱな本である。この世の規準で考える高等教育は必ずしも神様の目にかなうものではない。 ベレヤの信者は正しい規準を聖書に求めた。人間の生き方、考え方、真理と誤ちなどの判断を人間の言い伝えにたよらなかった。ただ聖書に照らして善悪の判断をしただけでなく、み言葉に従ったのである。彼らは聖書に従うことからおこる結果を恐れなかった。真の勇気ある信仰であったのだ。
◎ 暗誦聖句 マタイ伝六章二六節 |