◆パウロの生涯(三六)
               
   習志野バプテスト教会週報 
   二〇〇一年一二月九日号 
   ▽揺れ動く大地に立って
 
 
 教会の土台は何であろうか。ある人は高い理性に基盤を求める。別の人は伝統に重きをおく。ある人たちは自分たちの宗教的興奮からくる感情に土台をおく。またある人たちはカリスマ的な言動の人にひかれて集まる。
 
 聖書の教えや基準と自分が住む社会の基準とがぶつかる時にあなたはどちらをえらぶだろうか。
 
 スタンダード・オイルがエジプトで油田発見に成功したのは、聖書を読んでいた人の助言によるという。
使徒行伝一七章に書かれているベレヤの人々の生き方は私たちにとって大きなチャレンジ(挑戦)である。
 
「テサロニケの人たちよりも善良であった」ということは心の状態をいうのであろう。 
邪曲(よこしま)なる心ある者は幸いを得ず=i箴言一七章二〇節)

「みことばを受け」。聖書を読む人は世界中に数えきれないほどいる。文学の書として読む人、修業のために読む人、攻撃するために読む人(非難のために)、教養の一環として読む人、強制され(ミッション・スクールなど)て読む人、そのほか種々雑多である。聖書の販売量は毎年大変な数で、クリスチャンの人口を何十倍も上まわる。

 
「この事まさしく然るか然らぬか日々聖書をしらぶ」。聖書の言葉は正しい使われ方が肝要である。その聖句の背景と精神とをわきまえた適用をしなければならない(マタイ伝四章三〜一〇節)。

 聖書は長い歴史を持つ。過去の記述だけでなく、これから世界におきようとすることも預言されている。聖書全体の中心人物は主イエス・キリストであることを見失うならば、どんなに立派な解釈も例話も神様によろこばれない(ヨハネ伝五章三九、四〇節)。

 聖書の正しい解釈は聖書全体の思想・流れと矛盾しない(ヨハネ一五章二六節)。クリスチャンが集会で聖書を開くのは、み言葉の確認と、あとで自分の勉強のために参考とするためである。

 たびたび読んできた聖句でも、一語一語の意味を深く考えるなら新しい光をいただくことが出来る。えらい先生の説教だから問題がない、と思わないで、聖書で確認することである。

 正しい解釈であるならば、ほかの人にその聖句を通して証(あかし)をすることが出来るし、間違った解釈かどうかと迷わずに話せるようになる。

 聖書の根本(こんぽん)教理は二千年の歴史の中で確立されている。そして実際生活の中に活かされるのだ。頭だけの信仰ではなく、正しい信仰は態度、立場を鮮明にする意志を働かさせる力をもつ。

                   (つづく) 
 ◎ 暗誦聖句マタイ伝六章二六節
 

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