汝は祝福(さいわい)の基(もと)となるべし
               
   習志野バプテスト教会週報 
   二〇〇二年一月六日号 
   ▽祝福は全き服従に注がれる
 
  
我汝を大いなる国民となし、汝をめぐみ汝の名を大いならしめん。汝はさいわいの基となるべし
                 創世記一二章二節
 
 「主イエス・キリストのお守りと憐れみによって新しい年を迎えられるよろこびと感謝を賛美しましょう。」
 
 創世記一一章から始まるアブラハムの生涯は新年を迎える一人一人に幾つもの霊的な学びをよびおこす。
 
 ウルでは見るもの聞くものすべてが偶像崇拝の中にあり、父親のテラも偶像につかえていた(ヨシュア記二四章二節)。

 そんな環境の中にあったアブラムがどうしてあれほどまでに神様に忠実に従うことが出来たのか不思議である。思えば私たち日本に育った者は多かれ少なかれ、偶像崇拝や異教的習慣の中に生かされてきたのであるから、アブラムのその後の信仰の戦いと無関係ではなさそうである。

 
ア、神様の側からアブラムに語りかけられた。
 
 アブラムのおどろきは言葉にあらわせないほどであったろう。神様は主イエスのみ言葉を通し、あるいは身近な人や環境の変化、時物の移動とか病気などさまざまな動きの中に日々私たちに語っておられるのではないだろうか。

 ところが私たちの側では自分の好きな音楽とか気晴らしのTV番組などに夢中になって細く小さな声≠聞きもらしてしまっているのではないか。

 
イ、冠婚葬祭という言葉の中に日本人ががんじがらめになっている社会の慣習を思う。

 儀礼的なことになるとやかましいのは何も吉良氏に限ったことではない。神様は親族をはなれ∞父の家をはなれて≠ニおおせになった。私たちをつなぐ家族のきずなを絶つというにひとしい旅立ちであった。信仰は個人個人の責任と自覚にある。親の責任をいうより自分を省みよう。 
ウ、神様がお示しになる地にいたるとは、信仰によって未知の世界への出発である。

 目に見える写真などない時代であったし、食べもの、住居、生活環境、言葉などすべてが不安の材料であった。さしづめ現代でいうカルチャー・ショックがおそったであろう。示される地。
 

 人生の導き手でいらっしゃるキリストによって一歩一歩進むとき、必ず約束の地へ行きつくことが出来る。目的地をめざすためには寄り道をする暇はないはずである。余りにも多くの人が赤ずきんと同じに道草をくっているのではないか。眼は曇っていないだろうか。つぶやきばかりで少しも脚が動いていないということはないだろうか。つかれて坐りこんでいないか。
私たちは周囲の人に祝福となるよう召されたのだ。
 
 

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